たもんのインドだもん

第22回 インドでの家探し(前編)

2015.03.11更新

「でていってほしい」
 大家の息子からそう告げられたのは一昨年の夏だった。

 1999年から数えて14年間、バンガロールの一軒家の一階に大家さんが暮らし、二階をぼくら一家が借りていた。これまで奇跡的に厄介事は起きなかったが、時の流れとともに階下の家族構成は変化した。
 入居当初の大家であった親日家のおじいちゃんは数年前に病気で亡くなり、娘夫婦がその跡を継いだ。小学生だった孫二人も成人し、そろって結婚。それぞれの伴侶と同居して、家族は総勢7人の大所帯になった。二階の住人を追い出して、住まいを広げようと考えたのだろう。
 引っ越しについて、現大家の夫婦に相談すると自分たちには寝耳に水、息子たちが勝手に言い出したのだという。
「ダメもとでまず言ってみる」が基本のインドでは、こうした思いつきに振り回されることが実に多い。いちいち取り合っていては身が持たない。とりあえず彼らには「もし新しい家が見つかったら引っ越すよ」と言っておいた。
 しかし、数ヶ月たっても大家の息子のテンションは落ちつくことはなく、「出て行かないなら、荷物を外に出して、法的手段に訴えるぞ」と激しい口調のメールが送られてきた。
 母も滞在するたびにいやな思いをして、面倒だからもう引っ越そう、という話になった。
 ぼくは去年、12年ぶりの本の出版でてんてこ舞いだったのだけれど、なんとか夏に1週間だけ予定をあけてバンガロールに行ってきた。恐ろしくめまぐるしい人生最短のインド滞在だった。

 この十年でインド経済は大きく発展し、地味な地方都市だったバンガロールは、インド第三の大都市に成長した。
 町の電話屋や雑貨屋は不動産屋に変わり、国道や環状道路沿いにはピカピカの看板が並び、郊外の高級マンションや、プール付き建て売り住宅がバブリーに宣伝されるようになった。街の郊外化が進み、市内では住宅の供給が追いつかないという話もきいたが、近所を見回せば建設中のビルばかり。それなりに選択肢はあると思っていた。
 だが、そんな甘い期待は早々に打ち砕かれた。
 インドの「家探し」は14年前とほとんど変わらず、面倒で手強い仕事だったのだ。

 バンガロール到着の翌朝。近所の軽食屋で朝ご飯をかきこんで、不動産屋に向かう。
 おはよう、と意気揚々と店の扉をあけるが、誰もいない。すいませーん、と叫んでも誰もでてこない。前日に予約を念押ししたのにこれ。まあ、インドだもんね、と待つこと数十分、一人二人と社員がやってきて、ようやくマネージャー氏が登場した。
 「ラッキーだね。君の希望にぴったりの物件がある。一目で絶対気に入るはずだ!」
 遅刻してきたのに自信満々の笑み。真っ白な歯、のりの効いたシャツ。肉付きのいい腕に金のブレスレットがぎらり。饒舌な不動産屋ほど胡散臭いものはないが、まずはお手並み拝見といこう。

 「それで...君たちの車はどこ?」
 店の前に出たマネージャー氏があたりを見回しながらぼくに訊ねる。
 そうだった。インドの家探しでは、客の方で足を用意するのが普通。日本の不動産屋のように内覧用の車を用意している店はほとんどない。14年前も友人のタクシーを何日も貸し切って、街を巡ったのだった。
「車はないよ」
「じゃ、バイクは?」
「バイクもないよ」
「まいったな...」
 マネージャー氏は呆れ顔。車もないのに家探しするつもりかよ...と心の声が聞こえてきそうだ。
 すったもんだの末、オートリクシャーをつかまえて現地に向かうことになった。マネージャー氏は、自分のバイクで大家の家に寄り、鍵を受け取ってから現場で落ちあう。
 
 これまでの経験上、事前に鍵を用意するような、できた不動産屋にはなかなかお目にかかれない。
 大家から鍵を借りるのも一苦労。前もって約束していても、いざ訪ねてみたら留守だったり、鍵自体が見つからなかったり、とにかく待たされることが多かった。やっと鍵を手に入れて、玄関のドアをあけたら、すでに人が住んでいた、なんてこともあった。
 効率よくたくさんの物件を見て回れるように計画を立ててもまったくの無駄。日本人の希望的観測はことごとく打ち砕かれるのだ。

 オートリクシャーは不動産屋を出て、ものの2分ほどで停まった。現地への足をどうするかであんなに揉めたのに、超近所じゃないか。
 遅れてやってきたマネージャー氏は、鍵をジャラジャラ鳴らしながら 
「ここは値段も高くないし、環境も最高だから、絶対気に入るよ」
 とまくしたてる。
 小さなアパートメントの3階。重たいドアを開くと、ゆったりとしたリビングに大きな窓が広がる。通りの街路樹が日除けになり、風通しもよく気持ちがいい。トイレや台所のつくりも悪くない。だが、肝心のベッドルームが一部屋しか見当たらない。
 ぼくが不動産屋に伝えた条件は2ベッドルームだ。条件と違う、と文句を言うと、
 「でも、この家、最高でしょう? 2万ルピーじゃ安いくらいだよ」
と満面の笑みで切り返してくる。
 いやいや、家賃は上限1万5千ルピーまでしか払えない。昨日あんなに条件を確認したじゃないか、それ以外の部屋は案内してもらっても借りないから!と強い口調で言う。

 事務所に戻って仕切り直し。だが、手元の時計はもう12時をすぎている。マネージャー氏はだるそうにデスクに座ると、物件を調べることもなく言い放った。
 「まあ、ランチでも食べて、それから探そうか」

 家探しに充てられるのは賞味3、4日間。こんな調子で新しい家は見つかるのだろうか...。

〈後編につづく〉

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矢萩多聞(やはぎ・たもん)

1980年横浜生まれ。9歳のとき、はじめてネパールを訪れてから、毎年インド・ネパールを旅する。中学1年生で学校に行くのを辞め、ペンによる細密画を描きはじめる。1995年から、南インドと日本を半年ごとに往復し、日本帰国時に、銀座、横浜などで個展を開催する。

2000年、日印コミュニティサイト「Indo.to」をオープン。2002年、対談本『イン ド・まるごと多聞典』(春風社)を刊行。このころから、本の装丁の仕事をはじめる。バンガロールのアトリエをキープしつつ、2012年、事務所兼自宅を京都に移転。現在、インド/横浜/京都を行き来し、装丁、ペン画、エディトリアル・デザイン、イベント企画など多岐に渡って活動をくり広げている。

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