たもんのインドだもん

第26回 タクシー・ドライバー

2016.04.15更新


 ぴかぴかのショッピングモールで買い物を終え、カフェで甘ったるいドーナツをかじる。
かばんからスマホをとりだし、アプリを立ち上げると、地図に現在地がぱっと表示される。周囲数キロ圏内にいるタクシーは8台。GPSでどの車がどの通りにいるのかまでバッチリわかる。一番近くのタクシーの待ち時間は5分。迷わず「RIDE NOW」のボタンをクリックする。
 10秒もしないうちに、運転手の名前と車のナンバーがSМSで送られてくる。つづいて、運転手から確認の電話。あとはモールの入口へ降り、車に乗り、行き先を告げるだけ。面倒事は一切なく、次の目的地に運んでくれる。
 汗と埃と排気ガスにまみれながら、高すぎる! メーターで! と大声を張り上げ値段交渉していたのは昔話。いま、インドの都市には、スマホや携帯で予約する「キャブ」と呼ばれるタクシーが普及している。


 かつて、インドを訪れる旅行者の最初で最大の難関は、空港でのタクシー、と言われていた。
手八丁口八丁、目の血走った運転手たちがごった返す空港出口ゲートをモーゼの十戒のように突き進まねばならない。左右から客引きの手が伸びてきて、腕や荷物がひっぱられる。
「ヘイ ジャパニ、どこに行くんだ?」
距離感も金銭感覚も備わっていない日本人はいいカモ。ありえないほどの料金をふっかけられたり、行き先とはまったく違うホテルやお土産屋に連行されたり、みな散々な思いをする。
 他のタクシーより言い値の安い運転手がいて、ラッキー、と思って乗ると、降りる直前に「さっき言ったのは一人分の料金だから、全員だと○○○ルピー!」と言い出し大喧嘩になる。
 これがインドの洗礼だよ、と訳知り顔で言うこともできるが、そういう言い回しはもう十分だ。インドも便利になった。使えるものはどんどん使って、その分もっと美しいインドと出会ってほしい、と思う。

 ラッシュアワーや夜間には、メーター料金で行こうとしないオートリクシャーよりも、スマホで呼ぶキャブの方が結果的に安くあがることもある。
 大気汚染の数値は北京の何倍、何十倍といわれるデリーに負けず劣らずバンガロールの空気もひどい。愚直にオープンエアなオートリクシャーに乗りつづけていると鼻の穴は真っ黒になり、喉もヒリヒリする。気管支炎か喘息になりそうだ。実際、バンガロールに住む児童の6、7割が小児喘息に罹っているという統計もあるらしい。少なくともタクシーならば窓を閉め、濁った空気をシャットアウトできる。

 インドの街は変わった。変化とともに街との付き合い方も変わってくるのは自然なうつろいだ。
 映画館の帰り道、流れゆく街の灯りを横目に、市場や商店街の喧騒を耳に、生ぬるい夕凪に吹かれ、オートリクシャーに揺られているとなんともいえぬ幸福感に包まれて、ついウトウトしてしまう。あの牧歌的な時間はもうないのかと思うと、胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちになる。


 だが、たとえタクシーを呼ぶ方法がスホマになっても、タクシーやオートリクシャーの運転手とのおしゃべりはあい変わらず楽しい。
「どこの国から? インドはどう?」
 定型文のようなおなじみの会話から、近ごろ流行りの映画や音楽の話題まで。なかには政治や歴史についてハードにぶっこんでくるインテリ運転手もいる。がらっぱちな風体の若いムスリムの運転手に「バーミヤン遺跡の破壊について仏教徒としてどう感じているか」「日本に原爆を落としたアメリカについてどう思うか」と矢継ぎ早に問われ、面食らったこともあった。

 こないだのインド滞在時にも、バンガロール郊外の友だちの家に遊びにいった帰り道、いつものようにキャブを呼んだ。
「どこの国の人ですか?」
乗って間もなく、背中越しに運転手が訊いてくる。50歳がらみの白髪まじり小太りのおじさん。いまどき珍しく折り目のついた白シャツ白ズボンという、正しい運転手のいでたちだ。穏やかな英語が聞き取りやすい。
 日本人です、と答えると
「日本人?」と素っ頓狂な声が返ってくる。
「てっきり東インドかチベットの人かと思いましたよ。実は日本人と縁がありまして......」
 つい数年前まで、トヨタなどの日系企業で運転手をしていたそうだ。
「日本人はすばらしい。長年勤めてきたけれど、みな紳士的で、私たちにもけして粗末な扱いをしなかった」
 日系企業では良い思い出が多かったようだ。フリーの運転手として独立した時には、迷わず日本車を購入した。日本車は高いが、すばらしい技術を集めて作られていて長持ちする、サスペンションがどう、燃費がどう......とマニアックな車話が止まらない。

 ぼくも調子に乗って、身の上話をする。10代のころからのインド暮らし、バンガロールでの生活、インドで結婚式をあげてヒンドゥー教徒になってしまったことなどを話すと、いちいち後ろをふり返って驚いてくれる。

「ヒンドゥーから別の宗教に改宗する人はいるけれど、その逆をやってのけるとは! 今日は面白いお客さんを乗せました。私も宗教を替えた人間だから......」
 彼は笑ってフロントボードの上を指さす。そこには小さなガネーシャ神と聖母マリアの絵がちょこんと仲良く並んでいた。

 「数年前、家が火事になったんです」
ふいの出火で家はほとんど焼けてしまった。なんとか家族は助かったが、彼自身はひどい大やけどを負った。すぐ救急車で運ばれ、いくつもの病院を回ったが、どの病院も受け入れてくれなかった。
「たらい回しにされました。空きベッドがないのではなく、私が裕福な患者ではなかったせいでしょう」
 唯一受けて入れてくれたのがキリスト教系の病院だった。すぐに手術室に運ばれ一命こそとりとめたものの、完治するまで数か月間は寝たきりでまったく動けなかった。

 辛い入院生活を励ましてくれたのが、教会から来るおばちゃんたちだった。最初はキリスト教に抵抗があったが、彼女らとのおしゃべりは楽しく、讃美歌もうたってくれた。
 病室の窓からは教会の屋根と十字架が見えた。具合が良くなったら、あそこへお礼にいかなくちゃならない。退院後、彼は妻と二人、教会に行き、ヒンドゥーからクリスチャンに改宗した。

「ここがその教会です」
車はいつの間にか街の古い教会の前の通りを走っていた。なんてタイミングだろう。車窓から見える荘厳な教会に集まる人びとの姿を見て、ぼくはあやうく泣きそうになった。
 「私が改宗したことに眉をひそめる友人や親せきもいます。でも、つまるところ、宗教の問題ではなく、人と人です。きっとあなたも、いい人との出会いがあったんでしょう。私にはわかりますよ」

 家の前にたどり着き、メーターどおりの料金を支払うと、彼は「ありがとう」と握手の手を差し出した。夜の暗がりで気がつかなかったけれど、改めて間近で見ると、顔には大きなやけどの跡があった。めくれたような肉と皮の間から、いたずらっ子のようにころころとした瞳がキラッと光った。
 夕方のラッシュアワー、片道二時間強の小さな旅だったが、まったく長さを感じさせない、美しい長編映画にも勝る時間だった。普段はそんなことをしないのだけど、この日ばかりは思わずチップをあげてしまった。静かでふしぎな夜だった。

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矢萩多聞(やはぎ・たもん)

1980年横浜生まれ。9歳のとき、はじめてネパールを訪れてから、毎年インド・ネパールを旅する。中学1年生で学校に行くのを辞め、ペンによる細密画を描きはじめる。1995年から、南インドと日本を半年ごとに往復し、日本帰国時に、銀座、横浜などで個展を開催する。

2000年、日印コミュニティサイト「Indo.to」をオープン。2002年、対談本『イン ド・まるごと多聞典』(春風社)を刊行。このころから、本の装丁の仕事をはじめる。バンガロールのアトリエをキープしつつ、2012年、事務所兼自宅を京都に移転。現在、インド/横浜/京都を行き来し、装丁、ペン画、エディトリアル・デザイン、イベント企画など多岐に渡って活動をくり広げている。

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