10年後を考える

第2回 僕たちは「国民国家」の終わりに生きている?

2017.12.04更新

 「10年後を考える」をテーマに、未来に自分がどう生きていくべきかを考えるこの連載、自己紹介が終わっていよいよ本題に入らねばなるまい・・・!

 10年後の未来とはどんな未来であろうか?
 ・・・ということを考えた時に、なぜか突然思いついたのが古代中国の易と老子の道教から生まれた「太極図」だ。



 この図では黒(陰)のなかに小さな白(陽)があり、白のなかに小さな黒があり、それが二匹の魚のように絡み合っている。陰と陽のエネルギーが拮抗しながらこの世界をかたちづくるという自然の理をあらわした図だ。

 ここでポイントなのが、

・陰が極まる時に、小さな陽が生まれる

 ということだ。黒の面積が最大化した場所のなかに小さな白い点が生まれる。既存の世界の勢力が極まった時、それは「滅びと新生の兆候である」とこの太極図は教えてくれる。中国の歴代王朝の盛衰はまさにこの太極図のようだしね。

 でもってさ。
 未来を考えるうえでこの太極図のコンセプトを応用してみると、日本に住む僕たちもまた「滅びと新生の時代」にさしかかっているのではなかろうか・・・?という感じがしてきませんか皆さん?

 さてでは滅びようとしているものは何か?

 ここで思い切ってめちゃデカい風呂敷を広げて見るならば。それは「国民国家」というパラダイムの滅びのタイミングなのである・・・!

 ・・・と、いち微生物研究家がこんなこと書いちゃって大丈夫なのかしら? と冷や汗をかいてしまうが、この前提で話を進めていくことにするぞ。押忍!


フェードアウトする国民国家パラダイム

「ヒラクどん、そもそも国民国家とは何じゃね?」

 おばあよ、聞いておくれ。
 国民国家とは、国家という旗印のもとに、そこに住むものを「国民」として統合する社会システムとざっくり定義しておくね。

 「それはわしの住むムラとはどう違うのじゃ?」

 おばあちゃんの住むムラはだいたいみんな顔見知りで、大事なことは寄り合いで決めるけれど、日本という国民国家は南北わりと広大な領地に1億人以上メンバーがいて、当然寄り合いなんてできないからものごとを取り決めする代表メンバー(政治家や官僚)を投票で選出して議会を開く。そこで日本という国家のルールや年間計画を決める。

 「でもそんな遠いところで決まったものごとは、他人事になりはしないかね?」

 そうだね。だから「僕たち一億人はいちおう絆で結ばれた仲間である」という裏付けがいる。その裏付けは抽象的なものだと言語や歴史、具体的なものだと食生活だったりモノの考えかたや好みだったりする。
 今おばあちゃんと一緒に日本語でしゃべって番茶飲んでいるのは「僕たちはともに日本の国民!」という裏付けあってこそなんだね。

 「ふむふむ。じゃあもしわしがその裏付けを信じなかったとしたら?」

 さすがムラ一番の切れ者おばあ・・・!鋭い質問するね。
 もしおばあが裏付けを信じなかったら「国民国家」は成立しない。あくまでそれは「ヴァーチャルな約束」なんだね。

 「ふぉっふぉっふぉ・・・それはベネディクト・アンダーソンどんの言うことだのう。おばあはお見通しじゃ( ー`дー´)キリッ」

 ドヤ顔おばあの言う通り。
 国民国家とは国民として統合されているコミュニティ間の了解のなかで成立する「想像の共同体」のことだ。
 つまり物理的に存在するものではなく、しかも誰かが「この土地は国民国家である!」と一方的に宣言したとしても成立しない。その宣言に納得感を感じる他人の同意が必要だ※。

※かわぐちかいじの名作漫画「沈黙の艦隊」を読めばいかに国家というものがヴァーチャルであり、なぜ軍事セキュリティが国民国家において重要なのかがよくわかる

 「国民国家」とは、「とりあえずそういうのあるほうが便利だし」とみんなが思っているうちしか成立せず、「こんなものあっても得しねえな」と思う人の数が増えれば増えるほどその確かさはフェードアウトしていく。


滅びるものほど存在感を主張する

 20代後半から40歳くらいまでの僕の世代の少なからぬ人数が「日本という国民国家ってそんないい事あるの?」と思い始めている(と、当事者として強く感じる)。

 国家が保証してくれるセキュリティ、例えば年金や教育、医療サービス、都会の保育園に子ども預けられない問題などなど「いっぱい払ってる税金、掛け捨てになってない?」という疑念が強まっている(ちゃんと使われているケースもいっぱいあるのだが)。

 「僕たちの世代、ライフスタイルも価値観もだいぶ変わっているけど、世の中の仕組みは変わってなくない? なんか色々ギクシャクしてない?」


 というギクシャク感を感じている人は多いことだろう。
 このギクシャク感が増大してくると、人の心も殺伐としてくる。

「高齢者福祉の予算、教育にまわしてよ!」
「よくわからん規制のせいでどんどん世界の動きから取り残されている!」
「ワタシ働きたいんだけど子ども預けられない!」

 という「なんかわからんが損してるよ感」が高まってくると「なんだこの日本という不条理すぎる国家は?」ということになり「国民国家」の信頼と納得が揺らいでくる。

 ここで極端な仮定をしてみると、もし働き盛りである僕の世代の100%が「日本国民であることにメリットなし!」と宣言して税金払うのも日本人であることにアイデンティティを見出すこともやめてしまったらどうなるか?公共サービスも教育も崩壊して国家運営が成り立たなくなるよね、きっと。

 とうぜん国家のオーガナイザーはめちゃ困る。そこで取られるであろう対策は、

①国民へのサービスを手厚くして信頼を取り戻す
②国家を信じない人にペナルティを課す
③国民国家がないと生きていけない・・・と暗示にかける

 あたりになるだろうか。
①の策を適切に取ることができれば疑いは払拭され、国民国家パラダイムは安泰になる(はず)。しかし世の常として不安な時ほど強い態度を取ってしまうものだ。

 恋愛に例えてみるならば。ステディな愛が揺らいでいるカップル間で、

「ワタシのこと信じないなら・・・もう浮気しちゃうから!」=②

「何言ってるんだ!別れたらお前はひとりで生きていけないって、オレは知ってるんだぞ!」=③

 とハードコアなやり取りが展開され、結果二人の仲は崩壊・・・ということがよくありますね。

「さいきんワタシたち、ギクシャクしてない・・・?久しぶりに二人でお洒落してデートしようよ!」=①

 みたいにしたらいいのに、なぜかできない。不安さを払拭するために、煽るか束縛するかして自分の存在感を大きくしようとする。そして自滅する悲しみよ・・・!

 国民国家における②は「非国民」、③は「他国の脅威の刷り込み」というカタチをとる。②や③が発生するということは「さいきんワタシたち、ギクシャクしてない・・・?」状況におけるネガティブリアクションなのであるよ。


日本家の家族危機!

 それでは冒頭の太極図の話に戻ろう。
 僕が「国民国家パラダイムが衰退に向かっているのでは?」とXXXLサイズの風呂敷を広げたのには理由がある。国民国家という「陰」の存在感と必然が過剰に叫ばれる時=面積が最大化する時、それは同時に滅びに向かっていることを意味する。
テレビや新聞などのマスメディア(国民国家の絆を演出するメイン装置だね)で外交関係の緊張や、学校で愛国心のことが盛んに取り上げられ「今こそ国民で一致団結しようじゃないか!」という国家の運営者たちの叫びは、

「オレ! オレオレ! オレのこと忘れてませんか〜? 大事ですよ大事ですよ、オレ実は大事ですよ〜??? オレいないと家族成り立ちませんよ〜!?」

 と、家族のことおざなりにして空気化したお父さんの叫びのようなものだ。空気化して消滅したくないからこそ自分の存在を乱暴な手を使ってでも主張する。いちおう名目上は一家の主とされているので、お母さんは、

「はいはい。それじゃあ今度みんなをハワイに連れて行ってくださいね」

 と軽くいなすが、子どもは見て見ぬふりで「はやく大学行って一人暮らししてえなあ」とか思っていたりする。

 ここで僕の世代の立場は焦る空気化おじさんの子どもに相当するかもしれない。

「確かに育ててもらったかもしれないが、しかし現状ひとりの人間としてリスペクトできるかというと微妙・・・!」

 日本という国家を家庭に見立ててみると、その家族関係はかなりな危機を迎えているかもしれない。お父さん(国家の運営者)は頑固で怒りっぽく、お母さん(メスメディアや学校)は「はいはい」とあきらめ気味で、子ども(僕らの世代)は「そもそもこれで家族って言えるの?」という疑いを持ち始めている。


小さな陽に生きる

 この家族危機のなか、子どもができることは何だろうか? 両親のあいだを取り持って再び良い家庭にするために仲を取り持てれば最高だが、まあ難易度マックスでしょうよ。
そこで子どもは少し長い目で解決手段を考える必要がある。いったん家を出て、自分自身の家族をつくってみることだ。

 与えられる側から、与える側になる。

 自分なりに思う理想の家族をつくることにチャレンジしてみる。そうしたら両親の気持ちもわかるし「親父もその時代は会社人間で頑張るしかなかったんだな・・・」という共感が生まれてくるかもしれない。いつか一升瓶抱えてふたりで盃を交わせる日も来るかもしれない。

 さて、これから十年後、これから新たな道を歩む僕はどんな世界観で生きていくのだろうか。

 まず前提として。
 僕は、国民国家パラダイムをこれまでと同じように維持することはもうできない、という前提で生きていく。各業界の既得権益は頑なにキープされ、時代に適応してない規制は撤廃されず、迷走しているあいだに戦後蓄積してきた資産は国民に適切に分配されることなく霧散する。お父さんは頑固なまま定年してセカンドライフに入り、よくわからんまま株とか証券にハマって貯金を使い込むだろう。

 もしかしてその想定が外れていたらそれはそれで全然OKだし願わくばみんな朗らかに幸せに生きていける仕組みが存続してほしい。僕もそんなナイスな社会を願ういち国民として選挙行ったり共感する活動に寄付したりしているが、まあ期待しすぎないのが精神衛生上いいよね!

 バッドシチュエーションでも愉快にサバイブするためにはどうするか。それが僕の考えていることだ。

 太極図で言うならば、陰の肥大化を押しとどめるのではなく、新しく出現する小さな陽に生きるということだ。

 では新しく出現する小さな陽とはなんだろう?
 それこそ僕たちの世代がローカルで始めている生きかたなのだ、ということにいま書きながら気づいた。

 自分自身でも不思議なことに、不安な課題ばっかりに思える社会に生きているのに、僕はだんぜん楽観的だ。心配になるほどポジティブ野郎なのであるよ。

 デザイナーとして色んな業界の課題に向き合い、発酵の専門家として日本各地を歩き、さらに自分も東京から山梨の山の中に引っ越して、日本社会の現実を知るにつれ「面白くなってきたぜ・・・!」とエキサイトしてくる。それは実家から独り立ちして自分なりの世界へ踏み出していく不安と期待が入り混じった興奮に似ている。

 これからの10年間とはどんな時代なのだろうか?
 それは国民国家パラダイムが保証してきた様々なサービスが劣化し、消滅していく10年間であり、今まで信じられてきた日本というアイデンティティが解体し再生する10年間だ。

 そんな時代に燃え上がるのが、DIY魂。
 なければつくる。そして自分でつくるのは面白い。
 つくるなかで僕たちはたくましくなり、与えられる側から与える側になることができる。

 なぜ地方で生きるのがこんなにも面白いのだろうか?
 新時代のDIY野郎ども(女子含む)が生きる土地では、実はもうすでに「10年後の未来」が始まっている。何でもサービスを享受できる便利さがないぶん、自分たちにとって必要なものをつくることができる。つくるなかで深い学びと発見がある。つまりプロセスの楽しみがローカルの暮らしには満ち溢れまくっている。

 今まで散々悩みまくったこの連載の方向性だが、「すでに10年後の世界に生きるそこのアナタ」に向けて書くことに決めた。日本各地の僕の仲間たちももちろん紹介していきたいのだが、まず僕小倉ヒラクを最初のケーススタディとして話を始めたいと思う。

 それではまた来月会いましょう。

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小倉ヒラク(おぐら・ひらく)

発酵デザイナー。「見えない発酵菌たちのはたらきを、デザインを通して見えるようにする」ことを目指し、全国の醸造家たちと商品開発や絵本・アニメの制作、ワークショップを開催。東京農業大学で研究生として発酵学を学んだ後、山梨県甲州市の山の上に発酵ラボをつくり日々菌を育てながら微生物の世界を探求している。『てまえみそのうた』でグッドデザイン賞2014を受賞。新著に『発酵文化人類学』。

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