セラピスト1年生

第9回 食べられないキットカット

2010.03.03更新


 研修1週間目に、最初の中間実技試験が行われた。

 内容は「お客様ご案内→リフレクソロジー20分コース→お見送り」である。クラスメイトが2つのグループに分かれ、前半にセラピスト役をやったグループが、後半はお客様役を演じる。
 チェックされる項目は、笑顔、言葉遣い、手順、リフレクソロジーをお客様と会話しながら20分以内に終えることなど。
 この中間実技試験にパスできないと、翌日からスタートする一期下のクラスに移動して、もう一度同じ授業を受けることになる。つまり研修が1週間追加となるのだ。

 ここまでの道のりは本当に厳しかった。正直、何度も投げ出したいと思った。でもキョウコさんのおかげでクラスにとけ込むことができ、仲良くなったクラスメイトたちとお互いに励まし合えたから、なんとか気力を保てたのだと思う。

 試験前日には模擬試験を行った。終了後に観音様みたいな担当講師が言った。
「本当にお客様のことを思って、施術、接客できましたか? みんな自分のことだけで精一杯じゃない? 今日の自分のリフレクソロジーを、2100円払って受けたいと思える?」
 お金をいただく、ということは、あらためて本当にすごいことだなと思った。私はいまの私の技術にとてもお金を払えない。それでもこの研修が終わるころには、お金をもらえるセラピストになっているのだろうか。ちょっとあり得ない気がした。

 そして迎えた試験当日。
 自分のお客様役がクラスメイトの誰になるかは、試験が始まってからでないとわからない。
 私は神さまに一つだけお願いした。「どうかヒロミちゃんになりませんように」
 ヒロミちゃんは23歳の高知出身のすごいべっぴんさんなのだが、研修3日目にふたりで本番さながらの練習をしたとき、私は彼女の穴があくほど真剣な視線にものすごく緊張してしまい、セラピストの"演技"がまったくできなかった。
 だから、彼女自身にはまったく悪意はないのだけど、もし彼女がお客様になったらその日の失敗が思い起こされてしまい、試験の結果に影響が出るのではないかと思ったのだ。

 しかし、私の番になり、受付に立っていたのは、まさにそのヒロミちゃんだった。お客様役が15人もいるのに、すごい確率である。
 案の定、私の心拍数は一気にあがり、ご案内はしどろもどろ、リフレクソロジーの最中には、会話はそこそこできたものの、笑顔がなかなかキープできなかった。

 試験が終わり、担当講師が職員室で採点中の間、私たちは教室で各自補習をすることになった。
 私はキョウコさんに声をかけ、教室の一番隅っこのリクライナーで練習を始めた。他のクラスメイトたちが明るい声で話しているなか、ふたりとも一言も口をきけずにいた。
 そのうちキョウコさんがぽつりと「ぜんぜんダメやったわ」と言った。「私も・・・」と返事をしながら顔をあげると、キョウコさんの目が赤かった。それで私の涙腺も一気に開いてしまった。

 日々新しい知識に追いまくられ、試験のプレッシャーと闘い、睡眠不足とも闘っていると、感情の起伏が激しくなるようで、ちょっとしたことでビックリするほど泣けてくる。
 キョウコさんは自分のハンドタオルを私に手渡しながら、「ちょっと上行こか」と言った。
 私たちはキョウコさんが寝泊まりしている部屋の洗面所で思い切り声を出して泣き、冷たい水で顔を洗った。完全にノーメークになった私たちは、顔を見合わせて、ようやく笑った。
「ぜったい泣かんとこと思ったのに! もー、かおりんが先に泣くからやで」とキョウコさんが言う。
「いや、キョウコさんのほうが先だったよ。私はただのもらい泣きだもん」
 泣いたことをお互いのせいにしながら、私たちは教室に戻った。
 
 夕方、30人の研修生のうち、8人が担当講師と個人面談することになった。私とキョウコさんの名前も呼ばれた。
 そのころには私たちは1週間追加になるのを覚悟していて、「もう一度、基礎を学べるんだし、いいよね」と言い合っていた。
 しかし結果は、私はぎりぎりのパスであり、キョウコさんは一期下のクラスにスライドが決定した。
 私が何か言おうとすると、キョウコさんが「かおりん、よかったなあ! がんばりや! 私もがんばるから」と笑顔でハグしてくれた。これまでキョウコさんが私にしてくれたことがフラッシュバックのように脳裏に浮かび、涙が止まらなかった。

 同じクラスじゃなくなっても、同じ時間帯に同じ研修所で研修を受けているのだから、キョウコさんとの付き合いは続いていくだろう。そう思っていたが、現実にはそうならなかった。お互い自分のクラスのタイムスケジュールで動くわけで、廊下で立ち話する回数も少なくなり、ご飯も一度も一緒に食べられなかった。

 ただ彼女が新しいクラスに入って3日目に、「かおりん、私、スライドになってよかったわ。いまの先生の方が気が合うし、わかりやすいし。あのままやったら、リフレクソロジー嫌いになりそうやったもん」と笑顔で言ってくれたことがとても印象に残っている。彼女がリフレクソロジーを嫌いにならないでよかった、と、心から思った。

 キョウコさんと最後に話したのはそれから1週間後、私のリフレクソロジー期末実技試験のときだ。
 期末実技試験の朝は、一期下のクラスの研修生が小さいキットカットにメッセージを書き、受験する研修生に渡すというのが恒例である。
 その朝、彼女がくれたキットカットには、「かおりん、あなたは女優・・・」と書いてあった。私はまだこのチョコレートを食べられないでいる。

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堀香織(ほり・かおる)

1971年2月、石川県金沢市生まれ。M美大油絵学科を卒業後、某雑誌編集部のアルバイトから、編集者兼インタビュアー兼ライターに。専門は主に映画、音楽、文学。2000年6月に退社、01年10月〜03年10月までロンドン語学留学という名の遊学で日々を無為に過ごす。同年11月よりフリーランスライター/編集者として、雑誌やフリーペーパー、ウェブマガジンなどにインタビュー原稿などを執筆、単行本の構成もてがける。代表作にムック本『Cocco—Forget it, let it go』、平野遼水彩・素描集『疾走する哀しみ』など。趣味は散文書き、読書、家飲み。好きな言葉は「君の道を行け。他人には勝手なことを言わせておけ。――ダンテ『神曲』より」。

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