セラピスト1年生

第22回 不安と焦燥の日々

2010.09.08更新

 銀座店に勤めて1カ月、何人かの友人知人が私の未熟な施術を受けにわざわざ足を運んでくれた。
 女友達、男友達、元カレという近しい人たちのなかに、なんとCoccoのファンでmixiのマイミクとなり、これまで一度も会ったことのない女性たちがそれぞれ神奈川、大阪、名古屋から受けにきてくれたこともあった。指名で来ているのに、受付周りで「初めまして」なんて挨拶をしているので、スタッフがよく不審がっていた。そりゃそうだよね。

 働いて20日目(1月7日)のメモにはこう書いてある。
「マスイさん。ボディケア40分を60分に変更成功。背中を施術しているとき、ふいに『いまのマスイさんを癒せるのは、恋人でも妻でもなく、私なんだ!』という想いがわきあがる」
 そう、最初の1カ月は本当にこんな小さな喜びの連続だった。

 でも1カ月を過ぎたころから、不安に襲われるようになった。
 初めてついた女性客に最初の5分で「ねえ、もっと力入れてって言ってるじゃない! 聴こえないの!」と怒鳴られ、担当者のチェンジはされなかったものの「40分じゃなくて20分に変更してください」と言われたり、男性客のボディケア30分コースが終わったときに「だいぶ楽になりましたか?」と声をかけたら鼻で笑われ、会計時に一言も口をきいてもらえなかったり、そんなことが不思議なのだが1カ月目あたりから起きるのだ。
 むろん、指名はひたすら友人知人のみだし、施術が少しずつでもうまくなっているのかどうかもわからなかった。「これは自分の人生にとってあまりにも無駄な寄り道なんじゃないのか?」という不安定な精神状態で日々を過ごすようになっていた。

 そんなころに、元カレがやってきた。
 彼は終了間際のラスト1時間を予約して初めて来てくれた。個室で施術が終わったとき、「あー、気持ちよかった」とあっさりした声で言って、伸びをした。でも私にはそれは本気の言葉には聴こえなかった。
 片付けと着替えをしている間、彼に近くのバーで時間をつぶしてもらい、それからふたりで食事をした。編集者の彼は最近の出版事情や取材やなんやかやについて話をしてくれた。でもそこでも私の施術についてはまったく何の感想も言わなかった。だから私も何も訊かずにおいた。
 しかし、中目黒のバーまで移動をして、事件は起きた。
 カウンターにはふたりの女性の先客がいた。それでなんとなく4人で話すことになり、彼が私を指し示して、「銀座でマッサージやってて、さっき受けにいったんだよ。すごくうまかったよ。君たちも行ってあげて」とふたりに言ったのだ。
 私はビックリして彼を見た。彼は少し酔っぱらっていたけれど上機嫌でにこにこしていた。私はその顔を見て、ひどくショックを受けた。
 というのも、彼は常に私の書いたものをおもしろいと言ってくれていたし、一緒に飲んでいるときに自分の知り合いに会うと、「すごく優秀なライターなんだよ」と私を紹介していたからだ。
 社交的なふるまいとして、「マッサージ気持ちよかったよ」と思ってもいないことを口にできるのであれば、ライターとして褒めてくれていたのも世辞だったということになる。そのことがひどく悲しく、酔いも手伝って、私はカウンターで思いがけず涙をこぼしてしまった。

 帰宅してから「せっかく高いお金を払って来てくれたのに、癒せなくてごめんなさい」という内容のメールをしたら、翌朝、彼から返信が来た。そこには「昨夜はありがとう。ごめんね、そんな想いをさせたとは。技術云々ではなく、カオルらしさが出ていなかったから。いつも自宅で発揮していたゴットハンド待っています」とあった。
 そうか。付き合っていたときのマッサージはちゃんと癒すことができていたんだ、と思って少しホッとした。

 でも「らしさ」ってなんだろう? 「らしさ」って、やはり舞台でアドリブ言えるくらい動ける役者レベルなんじゃないかな。だとすると、私の「私らしさ」は、いつになったら発揮できるんだろう?
 焦ってもいい結果は出ない。とにかく300人触るまでは無心でやろう。そう考えても、翌日には焦燥感に駆られる。たぶんライター&編集者としての仕事が思うようにできない辛さがその気持ちを増幅していた部分もあったと思う。

 そんなころ、女友達がこんなメールをくれた。
「常に周りの人を楽しく心地良くさせ、素敵な空間をつくることができるホーリーには、マッサージの仕事は適職だと思います。ライターはきっと天職なんだろうね」
 いまこの言葉を読み返すと、恥ずかしくなる。このときすでに私は、適職だったかもしれないものから逃げ出したい気持ちでいっぱいで過ごしていたのだ。

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堀香織(ほり・かおる)

1971年2月、石川県金沢市生まれ。M美大油絵学科を卒業後、某雑誌編集部のアルバイトから、編集者兼インタビュアー兼ライターに。専門は主に映画、音楽、文学。2000年6月に退社、01年10月〜03年10月までロンドン語学留学という名の遊学で日々を無為に過ごす。同年11月よりフリーランスライター/編集者として、雑誌やフリーペーパー、ウェブマガジンなどにインタビュー原稿などを執筆、単行本の構成もてがける。代表作にムック本『Cocco—Forget it, let it go』、平野遼水彩・素描集『疾走する哀しみ』など。趣味は散文書き、読書、家飲み。好きな言葉は「君の道を行け。他人には勝手なことを言わせておけ。――ダンテ『神曲』より」。

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