となりの坊さん。

はじめに

 みなさん、こんにちは! 四国の「坊さん」白川密成です。

 ミシマ社から出版された僕の書籍デビュー作『ボクは坊さん。』は、24歳でお寺の住職になったコメディー映画や青春小説のような日々を、ブッダや弘法大師(空海)の言葉を交えながら描いた本でした。発売直後に「朝日新聞」「読売新聞」の著者インタビューが同日掲載され、他にもNHK「週刊ブックレビュー」や若い女性向けの雑誌、経済誌と幅広いジャンルのメディアで次々と取り上げられる異例の「坊さん本」となり、多くの読者の方と出会うことができました。

 その際に、多くの読者や取材者のみなさんが共通して伝えてくださる言葉がありました。それは、
「まさに今の時代が呼んだ本であると思います」
 という意味の言葉です。

 多くの方が、「今」という時代と「仏の教え」「聖者の声」というものを交互にじっと見比べることで、曖昧ながら「"仏の教え"には私たちが耳を澄ませるべき、何かがある」という感触を得てくださったようです。そして、それは僕の素直な直感でもありました。

 同時に様々な出会いを通じて痛感したことは、自分自身がまだまだ未熟で勉強不足な僧侶であることです。これは謙遜ではなく、心からそう思います。

 今回、『となりの坊さん。』を書き進めるにあたって、僕たちが今、仏教から"うれしいもの"を受けとれるとしたら、どんな方法が有効だと思っているかをまず、整理して考えてみたいと思います。

 まず僕にとっての「坊さんの仕事」とは、仏教を学び、感じ、それを生きるヒントとして生活し、そのことを伝える、ことだと考えています。これが、みなさんの前で語るうえでの、すべての土台になるように思うのです。つまり仏教から"うれしい"可能性の種をたくさん見つけて、使える形に仕上げていくこと。それは、まるで形を持たない伝統的な工芸品を、現代の人たちに多く使ってもらえるような方法を考える、見習い職人でありプロデューサーであり農夫のような立場であると感じます。

 そのことを受け止めると、今、坊さんである僕が取り組むことには、すべてを解決するような大きなアイデアや近道はなく(少なくても僕は思いつきません)、とてもシンプルで愚直な方法だと思うのです。

 それは、仏教のインプット(入力)とアウトプット(出力)の両面を、常に意識、実行することだと考えます。つまり様々な方法で仏の教えを受け取り、それを今を生きる自分なりの言葉、表現方法で実行したり、伝えたりする。このインプット、アウトプットの大切さは「坊さん」のような立場の人々だけでなく、仏の教えを生活のヒントにしたい、この文章の読者のみなさんのような人たちにとっても、同じように大切なことのように思います。知る、やってみる、動いてみる、また考える。そういう往復運動は、「宗教」と「思想」のようなものの違いのひとつだと言えるかも知れません。

 「仏の教え」を生活の中で活かそうとするならば、その出力先である、生活や人生の場面で「やってみる」という試みが本当はとても大切なはずです。そういう意味では「仏の教え」を、まるでワークショップのような雰囲気で語ることはできないか、話し合うことはできないか、そんなことを夢想することがあります。いや、しかしそもそも仏教はワークショップ的でもあるはずです。「思想をただ無思考に礼讃するのではなく、本当に自分にとって意味があるのか、何度も考え検証してください」私が法話を聞いたチベットの高僧は、常にそのようなことを述べておられました。

 先ほども触れたように、僕はまだ若いはな垂れ小僧です。しかし、そこで口を閉ざしてインプットに専念するよりも、繰り返し小さな智慧を見つけ、どんな小さな部分にも仏法の香りは含まれていることをみなさんと共に想像して、共有しようとする、そんな気分を大切にしていこうと思います。なぜならば"今"だから、語れることが、確かにありそうだからです。

 そんな中で、大切にしたい、もうひとつの感覚を「途中の仏教」とでも呼ぼうと思います。自分に説明する時には「ゆるさをゆるす仏教」と言ったりもします。つまり、かつての釈尊や弘法大師のように、またとてつもなく度量の大きな人格者のように、完璧に近い形で実行することはできないかもしれないけれど、「仏法に触れたことで、ここはできたよ。できないことも、ずいぶん多いけれど」というようなスタンスをひとまず「あり」にしたいのです。簡単に言うと、「まずはできることから始めたい」と素朴に考えています。

 それを考える僕にとっても、みなさんにとっても「私を含ませて考える」ことも大切なテーマになりそうです。どこかに、ありがたい話があってそのことを「鑑賞」するような態度であるよりも、その話が「私」にとって、あるいは「私が関わる誰かや何か」にとって意味合いや感触がある話題なのか、そのことをしっかりと念頭におきたいと思います。大乗仏教において、「他者」というものは「私」よりも大切にするべきものとして繰り返し語られ、その理由は「単純に"私"よりも"他者"は数が圧倒的に多い」とクールに語られたり、また「何度もの輪廻転生における前世の中で、もう十分に"私"を大事にしてきたはずだから」とユーモアを交えて、しかし真剣に語られます(輪廻転生は仏教においても様々な異なった解釈がある部分だと理解していますが)。

 僕は今、「途中の」人間として、「私」というものをもっとフラットに、「当然、時に他者よりも大事に感じてしまう人」として、まずは正直にとらえておきたいと思います。そのような実感に即した態度から、結果的に「より快適な"私"という範疇の更新」のようなことが、心の中に起こるとしたら、それはとても「仏教的」だなと、個人的に感じます。

第1回 仏教ワークショップを試してみる(前編)

2010.07.07更新

灌頂施ワークショップをやってみよう

 以前にお話させて頂いたことから、始めようと思います。私が師のように感じている僧侶がよくお話してくださるお布施の種類についての話です。お布施には種類があります。たとえばお金や衣服を施したり、仏法を説いたりする布施があるけれど、一番価値のある布施は「灌頂施」(かんじょうせ)という布施であるという話です。

 灌頂は、聖水を用いて行われる密教の特別に大切な儀式のことで、灌頂施はそれを執り行うことを一般的にはさすでしょう。しかし師は、灌頂施と同じようなことは誰でも実行することは可能だと繰り返し、語られます。「その人が持っている、その人だからできること、特性を見つけ出し、それを伝えてあげること」そういうことなんだと僕は伝えられました。

 この話は、「なるほど!」と納得できる話で、しかも聞いていてなんだか気持ちのいい話なので、僕もよくお話しするのですが、一体、どれだけの方が具体的に取り組んでみただろう、恥ずかしいことに自分を含めて。と思ってしまうことがあるのです。
 そこで、提案します。やってみませんか? 灌頂施を。コーヒーやお茶でもいれて楽しい雰囲気で。


1 まずノートを一冊用意しましょう。パソコン上でやりたい方は、新しいフォルダをつくり文章を作成できるソフトを開きましょう(基本的にノートで説明しますので、パソコンでする人は、それを参考にして適当にアレンジしてみてください)。僕はノートの表紙に"「となりの坊さん」ワークショップ"と書きました(一度にやるとすごく時間がかかりますので、暇を見つけて少しずつ完成させましょう)。
 
2 ノートに日付を書き、「灌頂施をやってみよう」と書きます。そして10人の人をまずリストアップしてください。普段関わりのある人、家族、友人、なんとなくうまくいっていない人、大好きな人、誰でもかまいません。人数は、多くなりすぎないほうが、いいように思いますが越えてもかまいません。10人思いつかない人は、少なくてもいいです。僕は4人目に、自分の名前を書いてみました。聖人でない方は、自分を入れてみるのもいいと思います。書きたくなければ、それも、もちろんOKです。僕も家族や友人を書きました。

3 「人間以外」を5つリストアップします。僕は飼っている「犬」や「瀬戸内海、四国の自然」、「仏教」、好きな会社なんかを書きました。

4 先ほどの、「10人のリスト」をひとり一ページとって一番上にその人の名前を書いていきます。「人間以外の5個のリスト」でも同じようにします。ほぼ空白のページがノートに15ページできたわけです(パソコンの場合はどんどん書き加えられるので、必要のない作業でしょうね)。

5 4で制作したページに(大きな空白)に、「その人、それ、だからできること、得意なこと」「その人や、それの好きなところ」を書いていきます。いくつ書いてもいいです。書けなければ、書かなくてもいいです。これは簡単な作業ではありませんよね。自分が何を「価値」だと感じているか、そんな対話にもなるように感じました。

 そして、それに矢印をつけて「それを伝える方法」を書いていきます。そしてその方法が、「言葉によるもの」なのか、「言葉ではないもの」なのか、をわかるようにしておきます。できれば両方書いてください。恥ずかしい場合は「言葉以外」だけのことも、僕は多くなりました。家族なんかは特にそういうこともありますよね(繰り返しになりますが、一度にできる作業ではないので、じっくりつくりましょう)。

 例えば僕の場合は、ある人に対して「自分が正しいと思うことをしっかりと考え、それをきちんと伝えられる」→電話した時やバースデイカードでやんわり伝える(言葉)。→自分が仕事で取り組んでいるプロジェクトに対する疑問や提案をお願いする(言葉)。などと書きました。「瀬戸内海の自然」に対しては、言葉は通じませんね(たぶん)。言葉は人間しか持っていないことを感じました。そして、言葉を用いなくてもできることって結構あります。

6 できれば、一日朝、昼、晩の三度、ノートを広げて、各ページを読み、書き加えることがあれば、書き加えます。そして、"「となりの坊さん」日記"に(次回、説明します)、実際にやったことや、その結果、うまくいったこと、いかなかったこと、思いついたことを書いていきます。一日三度が難しければ、二度でも一度でもかまいません。しかし、できれば毎日やってください。

 いかがでしょうか? まずはしばらく、一緒に続けてみませんか。
 もちろん人間は、そんなに綺麗にできていないので、そんなにマニュアル通りにやって、うまくいくはずかがない、と感じられる方も多いと思います。僕もどちらかというと、そういう風に考えることの多いタイプの人間でした。でも、もしこんな方法が無意味だとしたら、「ああ、本当に無意味だ。人間って難しいなぁ」という壁まできちんと自分の体や頭を当ててみたいと思ったのです。でも「できないこともずいぶん多かったけれど、やってみないよりは、やってみて、よかったよ」ということが、1ミリでもあるとしたら、どんな高度な仏教哲学を精緻に語るよりも、ある意味、僕たちは「仏の教え」に"真摯に接する"ことになるかもしれない・・・。そんな風に感じたのです。

 長いお話になりそうですので、前半部分はここまでにします。
 次回に後半部分をお届けしますねー。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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