となりの坊さん。

第4回 沈黙の語るもの(後編)

2010.08.13更新

 『維摩経』(ゆいまきょう)というお経があります。
 お坊さんでも仏様でもない主人公が、次々にお坊さんや菩薩などを、論破していくという戯曲的な性格をもった面白いお経です。1〜2世紀に成立したであろう、と考えられており、日本で著されたもっとも古い書物とも言われ(古事記よりも古い!)、聖徳太子作と伝えられる『三経義疏』(さんきょうぎしょ)の中でも解説されています(ちなみにその他のふたつは『勝鬘経』(しょうまんぎょう)と『法華経』です)。

 そこでも大切なモチーフとして「沈黙」が登場します。
 このお経の主人公の維摩が、そこに集まっている菩薩たちに、分別も対立するものもない世界〈不二の法門に入る〉ということは、どういうことなのですか。と問いかけます。
 それを受けて、徳守菩薩、徳頂菩薩、師子菩薩、妙意菩薩、無尽意菩薩、などなどの菩薩は次々と自分の見解を述べていきます。このあたりのシーンは壮観です。

 例えば徳守菩薩は「〈我〉と〈わがもの〉というのは二つに対立したものです。我があるゆえに〈わがもの〉があるのです。もしも我がないならば〈わがもの〉というものもないのです。これが不二の法門に入ることです」と応じます。
 そして最後の文殊菩薩が答えた後、文殊は、
「さぁ、あなたがお説きください。不二の法門に入るというのは、どういうことですか?」
 と維摩に発言を促します。

 すると、維摩は「沈黙」するのです。(「そのとき維摩は黙然として、言葉がなかった」)
 文殊はその「沈黙」に感動し声をあげます。
「みごとだ。みごとだ。さらに文字や語音も存在しない。これが真に不二の法門に入ることです」
 この議論の聴衆には五千人の菩薩がいましたが、その菩薩、みんなが〈不二の法門に入った〉と経典には記されています。

 僕が仏の教えに触れていると、なにかを説く時、それは「ひとつの真理」を示すというよりは、「両極端のことを同時に大事にしなさい」ということや、「正反対とも思われるなことが、同時におこっていること」を喚起させられることがとても多いです。

 「沈黙」についても同じような印象を受けるのです。
 語りかける言葉を否定するのではなく(なにせこの経典も"言葉"で書かれているのですから)、「世界に現れでた言葉"のみ"で考えてはならない」「そこには同時に、"現れるかもしれなかった"無数の沈黙があることを知りなさい」「沈黙でしか、語り得ないものがあるとしたら、それを静かに耳を澄ませなさい」そのような呼びかけを、感じるのです。これは、僕の個人的な感じ方かもしれませんけれど。

 「沈黙」から悟りを得た五千人の菩薩。そして宇宙の「沈黙」。
 答えめいたものは、今、僕の胸の中にはないですが、せめていつもよりすこし、沈黙というものに耳を傾け時間を積み上げてみたいと『維摩経』から思いました。



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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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