となりの坊さん。

第5回 失ったこと、手放したことで、得るもの

2010.09.09更新

 「お坊さんってどんな仕事が、あるの?」と聞かれることがよくあります。「結構忙しいんだよ」と漠然と答えることが多いのですが、例えば今日は、今から仏具屋さんと「大般若経典」のための新しい「箱」のサンプルをチェックします。
 栄福寺では昨年、新しい大般若経典600巻の購入を決めました。住職である僕は、明治天皇即位記念で当時の住職が納めた、現状の大般若経の修復を檀家さんに提案しました。
 しかし、「修復しても、何年使えるかわからんから、みんなで力を合わせて、新しい経典を購入しませんか」という呼びかけが檀家さんたちからあったのです。

 「古いものをそのまま残すこと」「新しいものをつくること」このふたつは、いつも悩ましい選択肢ではありますが、必ずしも「古いもの」を残すことだけが、「坊さん」の仕事であると僕は考えていません。"今"生きている人が、自分たちの力でお寺に「なにか」をしたい。そんなダイナミックな気持ちも大切にしたいな、うれしいなと思って、その提案に賛成することにしました。そして、今回は印刷ではなく手刷りの大般若経を今でも制作している京都の職人さんを紹介してもらって、収めることにしました(物は新しくなり、技術は古くなるという珍しい展開)。

 600巻の経典を収めるために、大きな箱を12個、制作、購入することになりました。これにも色々なタイプがありますが、サクラの合板でつくられたものに決め注文しました。しかし栄福寺に納入の日、仏具屋さんの表情が曇り始めてしまいます。

「じゅ、じゅ、住職、すいません・・・。入りません・・・」
「えーーー」

 じつは、栄福寺の大般若経典は通常よりも、すこし厚めに制作されていて、それは細かく業者同士が打ち合わせをしていたはずだったのですが、手違いがあり箱に経典が入らなかったのです。「すぐにつくり直させます。本当に申し訳ありません」
 そこで、僕にある考えが浮かびました。箱の現物を観てみると、表面がニスを塗ってるような光沢があり木肌のぬくもりがまったく感じられなかったのです。

「あのー、どうせつくり直すのでしたら、"桐(きり)"で、この箱をつくることはできませんか?」

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『木―なまえ・かたち・たくみ―』(白洲正子、平凡社)

 桐は狂いが少なく、湿気に強く、また火にとても強いため、昔から日本では「箱」に重宝されてきました。そして何よりも、手触りがよく、美しい。白洲正子さんの『木―なまえ・かたち・たくみ―』(平凡社)によると、「箱」を大事にする習慣は日本独自のものらしく、明治時代に国宝級の美術品が国外に流出した時、その多くの見事な箱が焼かれてしまったそうです。しかし、近年では美術品保存に桐箱がどれだけ優れているかが、ようやく知られてきたようで、日本の職人がボストン美術館で桐箱をつくりに出向くこともしばしばということです。

 その話を向けると、仏具店の主人の表情が輝き始めます(やはり桐箱は合板よりも、ずいぶん高価です)。
「いや、それは素晴らしいことです。できます、できます。私が言ってはいけませんが、これは、不幸中の幸い・・・」
 な、なんて正直な人なんだ、と驚嘆しながらも(この人すごくいい人なんです)、何百年という未来を見据えるつもりで、桐の箱をお願いすることにしました。
 その後も、何度もやり取りを繰り返し、ようやく今日、「これでいこう」という桐箱のサンプルを(この文章を書いている途中に)観ることができました。そして、今、本堂ではひとつひとつ、また間違いのないように経典の長さを測ってもらっています。

 今年2月8日、作家の立松和平さんが亡くなられました。立松さんは、NHKの四国遍路番組で栄福寺に来てくださったり、数年前に僕が「ほぼ日刊イトイ新聞」に「坊さん。」という連載しているということが、朝日新聞で紹介された時に、激励のコメントを記事に寄せてくださいました。

 個人的なおつき合いはありませんでしたが、そのことを知った時思わず僕は、法の友である高野山の尼僧さんに「立松さんが亡くなられました。真摯な仏教者であられたように思う。心からご冥福を祈るよ」とメールを打ちました。様々な発言や作品から、仏教から「なにか大切なもの」を感じ続け、それを発し続けた方だと思っています。その中でも仏教学者の中村元先生の翻訳される「原始仏典」に親愛なる想いを抱かれていたように拝察しています。

 僕は『ボクは坊さん。』の中で、たくさんの原始仏典の言葉を引用しましたが、その中に多くある、ある意味でとてもラディカルで実践することが難しそうな言葉に、普段の生活の中でどのように対峙していいのか、自分なりに考えてみましたが、今でも心の中で「すとん」と収まる感覚が、うまくつかめないような気分がありました。例えば、

「交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがって苦しみが起こる。愛情から禍(わざわ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め」(『スッタニパータ』三六)

 このような言葉は、当時の出家者に向けられた言葉ではあるでしょうが、正直に言うと恋をすることだってある、日本の僧侶である自分を含んだ「普通の生活者」が、それを「今を生きるヒント」として、どのように受け止めればいいか、提案すればいいか、わからないような気分になることもありました。
 しかし、中村元さんについて立松さんがかつて書かれた文章を読んでいると、そこには小さくはないヒントがあるように感じました。

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『ブッダのことば―スッタニパータ―』(中村元訳、岩波文庫)

 立松さんが、小説で身を立てたいと思いながら、発表する場所はなく、日常的な生活に追われていた頃、恋愛をして結婚、そして奥さんが妊娠をされました。誰に相談しても、「お前が働くしかないだろう」と言われる。しかし、ずっと生活人として生きる覚悟などはありません。頭ではわかっても、心が納得しません。

 そして彼は、インドに向かいます。自分で働いた旅行資金に、奥さんが出産費用に貯めていた貯金まで借りて。「迷いに迷い、結局私は逃げることにしたのである」荷物の中には一冊だけの文庫本。それが岩波文庫の中村元訳『ブッダのことば―スッタニパータ―』でした。そして安宿のベットの中で、街の食堂の中で、ページをめくります。そして考えます。

「私の迷いをそのままいい当てられるような気がした。ブッダは執着の元を断てといい、ブッダ自身がそうしたように妻や子を捨てろといっている。そのようなことが私にできるわけもない。それでもよく理解できたことが一つある。何もかもを得ようとしてはいけないということである。いろんなことをいっぱいつかんでいる手から何かを捨てなければ、また新しいものはつかめないのだ」(以上、引用と参照は『中村元―仏教の教え・人生の智慧―』<河出書房新社>所収の立松和平「中村元先生のことば」より)

 自分の生きてきた、多くはない道を振り返ってみると、「失った」ことも「敗れた」ことも「あきらめた」ことも、少なくはありません。多くの人にとって、それは、そうであるような気もします。
 仏の教えから、今を生きるヒントに耳を澄ませてみると、その「手放した」ことから、つかみ取ることができるようなことが、あるのではないか? という問いかけを感じたのです。自分は、なにを、自ら"手放す"のか。そして、そこからなにを"求める"のか。そんなことをじっくり考えてみたくなりました。

 前回同様、『維摩経』を少し開いてみましょう。
 天女が維摩に「何を<法の楽しみ>といわれるのですか?」と問いかけます。すると彼は、
数々の<法の楽しみ>をあげていきます。そして、僕はその中でも「広く与えることを楽しみ」「たえ忍び柔和であることを楽しみ」「禅定に入って乱れないことを楽しみ」などの"楽しみ"に目を惹かれます。ある意味で心の中で何かを「手放すこと」が、結果的にまったく世界の違う"楽しみ"にも繫がっていることがある、そんな想像をさせられました。

 また、最近「生活の中での仏教の思想を活かしたいと思うのですが、まずチャレンジすること、ってなにかないですか?」とよく聞かれることに気づき、ダライ・ラマ法王が書かれていた「高潔な共同体」(サンガ)という意味がある僧団(僧)の「四つの特質」をお話しすることが多いです。

 それは、「一 もし誰かが彼らを害したとしても、彼らは害をもって応えない」「二 誰かが彼らに怒りを表しても、彼らは怒りによって応えない」「三 誰かが彼らを辱めても、辱めによって応えない」「四 誰かが彼らを非難しても復讐することはない」というものです。自分の生活を振り返ってみると、「あちゃー、すんません!」っと隠れたくなってしまうようなことではありますが、仏教の根本的な思想をよく表しているように感じますし、これもまた、「手放すこと」、能動的に「失うこと」で自らが、あるいは自分を含んだ社会が得る何かがあるんじゃない? というメッセージを感じることが、できるように思います。

 この考え方は「自らの考えを表明すること」を否定するものではない、というのが僕の考えです(それは"沈黙"の重要性についてもそうです)。ただ不毛で血なまぐさく、時に笑うに笑えない茶番にも似た、時間のもったいない「闘争」を避ける智慧のように感じ、その「違い」に敏感でいたいと思います。

 あなたが、生きる中で「失わなければならなかったこと」それは、とても多かったように想像します。しかし、だからこそ得たものはないでしょうか。そして、「手放したほうがいいもの」を今も、しっかりと抱えてはいませんか? そして、それはあなたを、どこかで損ない続けてはいないでしょうか。
 「あなた」という言葉を僕は今、使いました。しかし、どの「問い」も自分を深くえぐるような問いかけでもあります。

 凡夫である僕たちは、どうやら「完璧」にはなかなか生きられないようです。少なくてもかなり難しい。しかし、痛みをもちながら、勇気を持って「抱え続けていくもの」があるのと同じように、痛みに堪えて、また堪えきれず「般若」のような形相で涙を流しながら、「さようなら」をするものも、いくつかあるようです。

 心から、立松和平さんの冥福を祈念します。立松さん、ありがとうございました。


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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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