となりの坊さん。

第7回 死のレッスンと"気をつけて"恥を生きる(前編)

2010.11.12更新

 久しぶりに京都に行ってきました。とある同年代の女性とご一緒させて頂いたのですが、向かったデート(?)の先は京都国立博物館で開催されていた「高僧と袈裟展」・・・。プレゼントした物は「作務衣」・・・、でした。

 もっと若い頃、男女が交際相手を模索する一環として開催される食事会、「コンパ」なる催しに参加したことがあるのですが(ちなみにその時は「僧侶vsナース」でした)、「お坊さんって毎日、何してるんですか?」と、とにかく何度も聞かれました。
「おもに、毎日、木魚を磨いてるね」
 と、一応冗談のつもりで答えたのですが、
「ふーん。そうなんだぁ。大変なんだ」
 と真顔でスルーされてしまいました。しかし、現実が「高僧と袈裟展」と「作務衣」じゃ、何が本気か冗談か、わからないですよね。はぁ(と深い溜息をつく)。

 ちなみにちょっと「恋」の香りがする言葉が仏典のなかにありましたよ。

「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女についての嫉妬から夜も眠られない、これは破滅への門である」
(『スッタニパータ』一一〇)

 「俺はまだ、青春真っ直中だし!」とか言っているみなさん。あなたのことですよ。破滅に注意、注意!

 今回は、「仏の教え」そのものというよりも、「仏の教え」というものをひとつの「きっかけ」として「ヒント」として、こんなことも考えらるんじゃないかな、ということをお話ししてみようと思います。どの回でも「となりの坊さん」では、そんなことをやってみたいと思っているのです。

 仏教はなにを目的としているのですか? という質問をされたとしたら、「悟りによって、再び生を受けないこと」(なんだか、すごいですね)という答えが、僕が受けた教えに則ると、しっくりくるように思うのですが、もっとできる限りほがらかな言葉を探すとしたら、「本当の意味での"うれしい""リラックス""しあわせ"をみんなで実践しよう、探そう」というのも間違いとは言えないように感じます。

 そこで、頻繁に登場するのが慈悲、「他者のために」という精神で、みなさんも"仏教といえば"この、利他(他人を利する)のことを思い浮かべる方も少なくはないように想像します。僕もそうです。慈悲は仏教のなかですこぶる大きな存在であると思います。

「立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりたもて」
(『スッタニパータ』一五一)

 こういった仏の教えを耳にすると、「あっ、道徳のような話だね」と勧善懲悪のようなわかりやすくて、実行が難しい話だと感じる人が多いようです。しかし、僕はこの「慈悲」を個人的にもっと進めて考えることがあります。何度も繰り返してしまいますが、あくまで「ヒント」として「仏教の慈悲」を用いて。

 僕にとって、はじめて仏教、宗教の存在が気になり始めた理由に、子どもの頃に出会った「死」の存在がありました。いつしか人は気づき始めます。「ああ、自分はいつか死ぬのだ」そう思うと、恐怖と言うよりも、自分が死んで「いない」状態がうまく想像できず、そもそも、その"いなくなる"「私」という「個」は僕たちが一般的に考えているものとは、ちょっと違う手触りをもった対象ではないかと思い始めました。おそらく、仏教のある側面も同じような問題意識を持っている、と思っています。

 最近、チベット密教の古い死の技法に関する本を読んでいたら、
「死者の心にこの教えを刻み込むためには、外呼吸が止まる前に、教えを死者の耳元で何度も繰り返すべきだ。そして、外呼吸がまさに止まる瞬間に、身体の右側を下にした状態で死者に獅子の姿勢を取らせて、首の血管の脈の流れを押さえつける。(首のところにある)眠気をもよおす左右二本の脈管の脈を断ち切るように、力強く押さえ続けること。すると脈管に流れる風が中央脈管へと入り、逆流できなくなる。そして、死者の意識は、頭頂のブラフマン孔を通って、確実に抜け出ることができる」(『現代人のための「チベット死者の書」』(朝日新聞社)ロバート・A・E・サーマン 訳 鷲尾翠 P206)

という記載を目にし、これは仏教全般を範疇にする教えではありませんが、なんとまぁ、具体的で豊潤な死の体系を持っているのだと驚きました。だからといって、優れた師についてない方が、安易に実践できることではないであろうと、強く注記しておきます(もちろん!)。

 生命の「本能」のようなものは、「個」を守ろうとしていると思います。話が、すこし逸れてしまいますが、それも僕は「個」がある(あるように感じる)大きな理由のひとつのように感じます。つまり、種の生命を守ろうとするならば、各々が「個」を持っていると感じたほうが、都合がいい側面もあるように思うからです。しかし、どうやらその個が肥大しすぎると、どうにもあらゆる意味で「うれしい」「リラックス」に繫がらない、と論理的に時に直感的に感じた人がいたようです。

 たとえば「怒り」という感情にも様々な側面があると思うのですが、そのある部分は「俺の生命を脅かすと、お前の個の生命を脅かすぞ、消すぞ」という恫喝のサインのように思います。仏典には怒りをたしなめる記述が数多くみられますが、ここでも、どこか「個」に対する関連で僕は考えることがあります。

「修行僧らよ。ジャスミンの花が萎れた花びらを捨て落とすように、貪りと怒りとを捨て去れよ」
(『ダンマパダ』ー法句経ー三八〇)

 「修行僧」らは怒りを捨てることで何を見つめようとしたのでしょうか? それも「個」に関連した話題ではないでしょうか。ちなみに僕の学んだ密教では数多く怒りに満ちた形相の「憤怒尊」(ふんぬそん)の姿がありますが、これは「なぜ行くべき道をいかないのだ!」という"哀しみの怒り"だと思っています。 
 
 慈悲の実践、他者の為に行動することは、論理的に考えても自分を利することになる、ということを、僕は師から繰り返し伝えられました。それは、本質的にみると真実だなぁと感じることが多いです。
 しかし、僕たちのような、ちょっぴり(いや、かなり)情けない"普通"の人間は、なかなか現実の瞬間、瞬間には「本質的」ばかりには、考えることができない場面が多いです。僕はそうです。
 つまり自分の頭のなかでは、「ああ、ここで他人を利すると自分が損しちゃうな」と考えている自分を発見してしまうこともあります(こっそり言うと、しょっちゅうです)。

今日の前編はここまでです! 「おもしろかったぁ?(一休さん風に)」「そうでもない? すすす、すいません!」次回は、僕の個人的な想いも混ぜてお届けしまーす。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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