となりの坊さん。

第8回 死のレッスンと"気をつけて"恥を生きる(後編)

2010.11.17更新


 前回は、ミッセイのデート披露や仏の教えにおける「慈悲」「死」「怒り」についてお話ししました。話は僕の個人的なアイデアに向かいます!

 ここからは、さらに個人的な暴論の水域に入るかもしれないと思うのですが、"いつも"は無理だったとしても、"時"に自分の利益を(一見)度外視して行動してみることが、「死のレッスン」とも呼べるような行為になり得うるように考えることがあるんです。これには、少し説明が必要ですね。

 死によって、私たちの「個の結び目」のようなものは、ある程度ほどけるように想像しています。そして自分の利益を越えて、他者を利するという行為のなかでも、その「ほどけ」をおぼろげに体感することがあるように感じたことがあるんです。その時「慈悲は"死のレッスン""ほどけるレッスン"のようにも個人的なアイデアとして用いることができるのかな」と思いました。

「"一切の事物は我ならざるものである"(諸法非我)と明かな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそが人が清らかになる道である」
(『ダンマパダ』―法句経―二七九)

 これは暴論ではなく、仏教のすこぶる大切な考え方です。
 自分が感じたことと、仏典を照らしあわせて受けとると、「個の結び目」は死によってほどけるばかりでなく、今、生きているこの時間にも、様々な形に変化しながら結びあったり、ほどけたりしていることを想いました。つまり僕たちは生きながらにして、ある角度からみれば"生まれたり死んだり"している。そして、そのことは、あらゆる存在があらゆる「関係性」との相互作用のなかでこそ成り立っている「空」の思想をも喚起するものでした。

 "慈悲"は、「死」にも「空」にも繫がった話題のように思えて、なにか、私たちがいつか包まれる「死」という存在、今、意識のなかで感じている「個」というものに対する「揺り動かし」の力があるように考えました。
 「慈悲」は、とても難しいことですが、その行為はとても多面的な意味があるように思います。ある場面なら、ある時間なら、という風に限定的であっても、そのような「贈り物」が他者や自分に向けて放射できるチャンスはないか、そのような機会を伺う姿勢はとっておきたいです。まるで「死」や「空」のワークショップを体験するように。

「本覚の源を知らず 長く三界の夢に眠りて 長く四蛇の源を愛す」
(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第一)

【現代語訳 本来具えている清浄な性質をわきまえず 長く流転輪廻する三界の中で迷妄のうちに眠りこけ 永く四匹の毒蛇が巣くう野原のような身体に執着してきた】

 執着のまったくない世界、それは今の僕にとって想像できないほど遠い感覚ではありますが、そう思える瞬間、自分の心のなかにどのような光が走るのか、そのことを仏教が伝えようとしてきたことは、心のなかに留めておかなくちゃな、と思います。

 今回は、すこし自分が読んでも抽象的でわかりづらい回であったかもしれないと思います。ですので具体的に野球の話でも慈悲を考えてみたいと思います。

 僕は、松井秀喜という野球選手のファンです。彼の魅力がどのようなところにあるのか、うまく説明することができないのですが、客観的によく言われることは、「彼はチームのためなら、自分を捨てられる選手だ」と評価されることが多いように思います。それは、時に美談のように道徳的に語れます。

しかし、野球の「ゲーム目標」を考えてみましょう。野球の目標は、ひとつしかありません。それは、チームの勝利です。ですから、松井選手が「チームの為に働くこと」は、自分の評価を高めるためにも、(もちろん)チームの勝利のためにも最良で唯一の選択肢に過ぎない、という結論を導くことができます。「それが難しいんだよ!」その通り。だからこそ、松井さんは「グッド・プレイヤー」であり、仏教でもその「グッド・プレイヤー」を目指そう! という問いかけをしているように思います。

 僕が教えを受けた仏教では、他者やそれを取り囲む社会の"しあわせ"なしに個の"しあわせ"はあり得ない、と伝えられました。それは、他者や社会は、ひとつの個に比べ、ずいぶんサイズの大きなものであるし、前述の通り、ひとつの個はあらゆる存在との関係のなかで成り立っているから、と考えます。まるで、野球のチーム・プレイのようだとも思いました。
 「だ・か・ら、それが難しいのっ」うん、そうです。僕もできないことばかりです。でも、ひとまず「机上の論理」でそのことを、しっかりと確認しておくことも、とても大事だと思うんですよ。(ちなみに僕はへこたれそうな時、松井選手のこの特別な場面を見たりします。* 6:15頃松井選手が登場

 加えて慈悲について取り扱い注意記載が必要だと思います。僕はお寺を訪れた方から、このような意味のことを言われたことがあります。
「私は、あなたの話を聞いて、こういった慈悲を実行した。つきましては、あなたにはこういった慈悲を実行していただきたい。あなたにはその"義務"があるのです」

 慈悲における一番、重要なこと。それは、慈悲が自分を利する物でもあると理解しながらも、「見返りを求めないこと」そう僕は教えを受けました。
 僕にできる、慈悲ってなんだろう? 笑っちゃうぐらい、シンプルな教えだけど、たぶん、それも仏教ど真ん中です。

***

 うーーん。やはり慈悲を語ることは、とても難しいですね。どうかもっと立派なお坊さんや仏教者の方の話にもたくさん触れて欲しいと思います(ごめんなさい)。

 最後に、最近考えていることをもうひとつ話してもいいですか?
 僕は結構前から人が「恥ずかしい」と思う感情に興味があるんです(変な意味じゃないですよ、たぶん)。

 例えば人が「見られる」と恥ずかしいと感じる体の部分は、ほとんどが「生きること」に直結した場所です。ペニス(生命の増殖)、乳房(生命の維持発展)、肛門(生命維持の為の排出)、そうなんだと思います。そういった場所を見られた時の感覚は、手の平を誰かに見てもらった時とは、かなり違います。「考えてみると、おもしろいな」と感じるんです。僕の感じ方では、それは「大事なところを奪われないように、見えるところに、置かないようにする」「大事なものだと感じてもらうように、普段は隠しておく」というような性質があるように想像します。

 しかし、私たちは、時に猛烈に見て触って感じたいと思います。生きている、そのことを。だからこそ私たちは「生きている」「恥ずかしい」が"丸出し"になったミュージシャンに心を揺り動かされ、裸の愛する人に抱きしめられたいと切望するのでしょう(坊さんが言うことじゃないけど、今日は許してください)。

 僕たちは「生きている」ことを「見せたら危ない」と感じながらも、同時に強烈に「見たい、見せたい」と感じています。人の心にもっと触れたいと思うならば、「生きている」「恥ずかしい」ことをも相手にも自分にも提示する必要もあるのかも、と思いました。仏教の思想になにかいいアイデアはないでしょうか? ないかもしれません。
 でも僕は、こんな言葉を"ヒント"にしたいと思いました。

 「師は答えた、"アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、と私は説く。その流れは智慧によって塞がれるだろう"」
(『スッタニパータ』一〇三五)

 「気をつける」またしてもガクッと脱力するほど、シンプルなこの方法、僕は「いいな」と思います。恥ずかしいものの提示が迷惑物の陳列(つまり不快)にならないようにするのは、「気をつける」しかない。僕も、そう思いました。あきらめの達観ラインを設定する。それもとても大事なことです。多くの場合「マジカルないい方法」なんて、ないのです。全身全霊でリラックスして「気をつける」心のどこかにメモしておこうと思います。

「生きていることを、見たい、見てほしい、なんてことを考えること自体が"煩悩"じゃないか」
 そう言われると、僕は有効に反論できません。しかし、それでも、どんな形であれ二千年の時を越えて、みなさんの前に仏典を示し、情けないながら耳を澄ませることが、「悪いこと」ではないことを信じています。「気をつけて」前に歩いてみましょうか。

 友人との別れ際、「気をつけて」と言ったこと。言ってくれたこと。そんなことを思い出し「人間って馬鹿のようでえらいのである。時々、その逆なのである」とバカボンのように僕は指を虚空に向けて指し、にやけました。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

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