となりの坊さん。

(新しい栄福寺の机を紹介するなかで、登場した仏教の「中道」(ちゅうどう)の教え。
 ミッセイさん! 中道ってなんですか? 前編はこちら!)

第10回 中道(ちゅうどう)の机(後編)

2010.12.22更新

 今、僕たちの生活や社会に溢れている様々な動きや言説、問題を眺めた時、この「中道」という捉え方は、とても大きなヒントがあるように感じています。

 「中道」とは、ふたつの対極的で極端な立場(有と無、常と断など)、どちらからも離れた自由な立場をとり実践することです。「中」とはいわゆる中間ではなく、二者択一的な設定自体から解放されることですが、身近に遭遇する様々な問題に対して、「あたりまえに、両方大事でしょ」と思わず感想が漏れることが、最近僕自身、とても多いように思うのです。そして、後ろ向きな意味での折衷案ではなく、うまくふたつの立場を混ぜ込もうとすることで、結果として「ふたつの対立」から離れた「中道」的な実践をできるのではないか、と感じることがあるのです。

 「個人」と「共同体」、「開いた組織」と「籠もった状態での問いかけ」、「伝統の継承」と「わくわくする新しい発見」、「商品性」と「社会にとって意味のある作品性」、「自分」と「他人」。思いつくままに、色々な対立軸をあげていっても、
「ねぇ、その両方があたりまえに大切だと思うんです。なにかいい方法はないかな」
 そういう思いや発言、行動が、僕たち個人や社会をよりベターな方向へ引っ張ってくれるような予感がしますし、正論のように思えて意外にこの視点が話の話題にあがらないことが、すごく多いように思います。

 この連載のなかで、僕は「何かを選択することの大事さ」について考えた回がありました。しかし、同時に、この世界のなかでは「選ぶ必要のないもの」「そもそも分けることができないもの」が実にゆたかに転がっている。そんな印象を持つのです。
 もしあなたが、会議の席や友人との会話で、「どう考えても、両方大切にしなきゃ」「その対立するふたつの設定自体がおかしいんじゃない?」と感じるならば、「仏教に"中道"という思想がある」ということに勇気をもらって、そのアイデアを誰かに伝えてみたり、行動として表現することを、僕はとてもいい方法だと感じます。

「師は答えた、マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」
(『スッタニパータ』八三九)

 ブッダも謎かけのようでありながらも、シンプルなこの言葉のなかに、その「単純な二者択一」から離れよ、と声をかけてくださっているかのようです。耳が痛い人も多いのではないでしょうか? 僕は痛かったです。そして信仰はなにかを譲らず固執するように考えられることも多いですが、そうではないとブッダは言います。そして、そこに"内心の平安"のヒントがあると伝えるのです。

「中観心を瑩(みが)いて、百非心虚に住(とど)まらず。外書(げしょ)間に閲(み)て、八不(はっぷ)常に念剣に繫(か)けたり」
(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集 巻第七』)

現代語訳 中観の真理に心をとぎすまされ、すべてを否定する虚の心に安住されず、余暇には異教の教えにも目を通され、八つの迷いを去った中道に迫る鋭い心の剣を持たれていた

 「中道」を漠然とイメージすると、どっちつかずの「ゆるい」おだやかな思想のようにも感じることがありますが、弘法大師にとってその教えは「鋭い剣」のようなラディカルで鋭利な教えでした。仏教の師、ふたりがこの言葉にかけたおもいに耳を澄ませてみたいです。すべてを否定して一方につくことは、もしかしたらたやすいのかもしれないです。その逆に完全に迎合することも。仏の教えは、そのどちらにもつかず、たゆたいながら、たたずんでいます。僕はその「立ち位置」が素敵だと思います。

 釈尊の生涯は、史実にかなり近いものと考えられるものに、神話的な伝説を豊潤に織り交ぜて、現代に語り継がれていますが、そのなかでもずっと僕が「ブッダの風景」として好きなシーンは、釈尊が晩年、弟子アーナンダによる最後の説法の嘆願により発したとされるもののなかでもサンスクリット語で残されている、

「この世界はうつくしいものだし、人間のいのちは甘美なものだ」

 と口にする場面です。

 しかしそれに並んで、極端な苦行主義とも快楽主義とも一線を画する象徴として仏典に語られる、苦行をやめて乳粥を口にして力を得るシーンもまたとても美しいと思います。

「このように極度にやせた身体では、かの安楽はえ難い。さあ、私は食物である乳糜(にゅうび)をとろう」「そこで私は実質的な食物をとって、力をえて、もろもろの欲望を離れ、不善なる事がらを離れ、粗なる思慮あり、微細な思慮あり、遠離から生じた喜楽である初禅を成就していた」
(『大サッチャ経』)

 このミルクを口にする釈尊の姿が、(伝説であったとしても)僕は本当に好きです。そしてその時、彼の心身を走り抜けた思想のイメージに大切な示唆を受けたいと願います。

 両極端のどちらにも加担しない「中道」の思想。その方法として"両方を混ぜ込もうとする"僕のアイデア。その「ふたつ」の設定から離れよ、と声をかける仏の教え。実践は口にするほど、簡単ではないと想像しますが、僕たちの生活と社会に小さくはないヒントが含まれているように感じます。
「物事を対立軸ばかりで見ないようにする」例えばそういう風に皆さん自身が自分なりの言葉で、やり方で考えてみると、このシンプルな教えはきっとさらに大切なものになるように思うのです。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

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