となりの坊さん。

第11回 「見えるところにおいて、トレースする」(前編)

2011.02.07更新

 最近、歩いて四国を巡拝する「歩き遍路」のお遍路さんが、増えているように感じています。若い人だけでなく、時にはすごく高齢の方が、歩いているのを目にすることも多いです。近年の夏は、ちょっと外を歩くには「暑いというより、危ないな」と感じる日もありますし、たまにはお寺で、気軽にコーヒーブレイクをしてもらいたいな、と思ったので栄福寺でもついに(?)、自動販売機を設置することにしました。

 メーカーは、某お茶製品が有名なところをお寺の雰囲気にあわせて、ちょっと安易な気分で選択したのですが、自動販売機の機械のデザインがお寺にあうか心配でした。「機械の色って、塗れないですよね?」と聞いてみると、「ああ、カッティングシートを貼ることで対応できますよ。他の四国札所のお寺さんでは、"木目"のシールを貼ったこともありましたね」「おお。じゃあ、たとえば寺紋(じもん、お寺のマーク)入りとかでも、できるんですか?」「ええ、できますよ!」「そうなんですか。それから自動販売機内部の商品ポスターって、"ようこそ、お遍路さん。 住職敬白"とかって、変えてもいいんですか?」「ええアリです」というやり取りがありました。結構、色々できるんですね。今は、仮置きで普通の自動販売機を置いていますが、ちょっと考えてみたいなと思っています。

 他にもコーヒー以外の、ホット飲料を「コーンスープ」にするか「おしるこ」にするかも悩ましいです。あと「ほうじ茶なのか、特濃緑茶なのか」とか考え出したら結構、難しい。「ほかに仕事はないのか! 濁世を憂いたりしないのか!」という声もかかりそうですが、してます、してます、本当だってば。ただナタデココヨーグルトとバナナミルクって、どっちもうまいですよね、人生って難しいなぁ(しつこい)。

 僕が卒業した母校の小学校の児童たちが、「まち探検」という授業で、栄福寺を何度か訪れました。お寺という場所、坊さんという役割では、時に知らず知らずのうちに「建前」で話すことが少なくないのか、思ったことをそのまま話す子どもたちとのやり取りは、なんだか自然に触れているようで心がゆるんでいくことを感じました。

 「なんでお寺に、カエルの置物がおいてあるんですか?」
 「お遍路さんが、無事"かえる"ことができるようにお守りなんだ。昔の中国では、旅に出る人が帰ってくることができるように、しなやかで折っても戻ってくる柳の枝を、お守りに渡したりしたそうだから、"帰ってくる"というのは、昔から、大きな願いだったんだねー」

 「線香って、なんですか?」
 「いい香りを・・・」
 「ええ! これが、いい匂い?」
 「まぁ、仏様にとってはね」
 「ああ、ナルホド」
 「いい香りを、仏様にプレゼントするような気持ちでお供えするんです。女性が好きな男の人に会う時に、その人を思い浮かべながら、お気に入りの香水をつけるようなものなのかな・・・」
 「そうかぁ、今年の誕生日は、私、お父さんに何を買ってもらおうかな(ウットリ)」

 でも一度、子どもたちとの「街づくり」ワークショップに参加した時に僕が驚いたのは、多くの子どもたちが、自分がつくれるひとつだけの建物に今治名物の「焼鳥屋」をつくったんです。ほほえましいとも思ったんですが、子どもたちは意外に、大人から与えられた少ない情報で強固な既成概念を持ってるんだな、とも感じました。これは、ひとつのたとえ話ですが、ある意味で恣意的に「自由であること」は"大人"の特権にもなり得るはずですよね。「恣意的に自由であること」、仏の教えにもそのヒントがあると感じることがあります。


「修行僧が人のいない空家に入って心を静め真理を正しく観ずるならば、人間を越えた楽しみがおこる」
(『ダンマパダ』ー法句経ー三七三)



 栄福寺では、新しい建物「演仏堂」や修繕の工事がはじまり、自分の部屋の荷物をいったん全部のける必要が生じたので、座敷に机や本棚、プリンター、服、布団を持ち込んで、仮の仕事場、生活場にしています。なので今、床の間の「大日如来」の掛け軸と見つめあいながらこの文章を書いています。その前には、聖徳太子の稚児像まであります。

 この部屋に移って、僕の生活習慣が好転したことがありました。ずっと同じ服を何日間も着続けるという僕の癖が、ぴったりと直ったのです。何年か前に、新聞広告で『うちの子、どうして同じ服ばかりきたがるの?』という本の宣伝を見かけて、「うわっ、僕のことじゃないか!」と思ったこともありました(えーっと、読んでませんけれど・・・。これを機会に買ってみようかな)。

 僕の名誉のために念のために書き添えると、もちろん下着は毎日変えますよ。一般的な男性並には服をみたり買ったりするのが嫌いなほうではありませんが、新しく買ったり気に入ったズボンや上着があると、わりと服がクタクタになるまでに、「着倒す」傾向があったのです。これは、服のためによくありませんし、第一、僕も適度に服を変えたいとは、思っていました。

 なぜ治ったか、それはシンプルな理由でした。この部屋は、押し入れやタンスがないので、部屋の隅に何本か物干し竿を建てて、「見えるところに」「すべて」「一望できる」状態で、僕のワードローブが勢揃いしたんです。これは、ファッションや衛生的な意味だけでなく、「うわっ、こんな分厚いハイネックセーター持ってたっけ! あったかいなぁ」ということも頻繁にあり、健康的かつ快適でもあります。整理がうまい人には、ピンとこないと思うのですが、僕にとってはこれは、大いなる自己革命でありました。

 そして、この「見えるところに、すべてが一望できる」というキーワードは、私生活や仕事でも活かせることだと思ったのです。例えば、やるべきことや、やりたいことが山積して、混乱している状態に陥った時(よくありますよね)、解決方法を思い悩むよりも、まず取り組むべきことは、項目を「すべて書き出して」「取捨選択、種類分けして」「常に見える場所に置いておく」「それを定期的に更新する」ようなことも、わりと有効なように思います。

 最近、出会ったチベット仏教の勉強をされている方から、チベット仏教について「その学びの体系をざっと俯瞰するなら、まず仏教の"全体像"を把握することが重要視されます」ということを、教えていただきました。むずかしいことではあるけれど、なにかを解決するためには、「全体のイメージをまずつかむ」ということは、とても大事に思えます。


「日月星辰は 本(もと)より虚空に住すれども 雲霧蔽虧(へいき)し 烟塵映覆す 愚者はこれを視(み)て 日月なしと謂(おも)へり 本有の三身も またかくの如し」
(弘法大師 空海『吽字義』)

現代語訳 太陽や月や星はもともと虚空にあるけれども、雲や霧によっておおいかくされ、煙やちりによって覆われることがある。愚かな者はこれをみて、太陽や月がなくなってしまったと思う。もともとそなわっている仏身もまたこれと同様なのである



 『ボクは坊さん。』では、まったくちがった文脈で紹介した弘法大師の言葉ですが、今回のような実際の身近な生活のシーンのなかで感じてみると、また違った味わいのある言葉です。雲のなかにある太陽や月、星、そして仏身のように、隠れているものを、まずは見えるところに、置いてみる。並べてみる。それを「まずやってみること」に設定することは、悪くはない選択肢のように思えます。


「覆われたものに、雨が降り注ぐ。開きあらわされたものには、雨は降らない。故に、覆われたものを開けよ。そうしたならば、それに雨は降り注がない」
(『ウダーナヴァルガ』第六章一四)


 シンプルな言い回しの多い、古い初期仏典の言葉のなかでは、すこし僕にとっては逆説的に響いてくる言葉です。なぜ覆われたものに雨が降り注ぎ、開きあらわされたものには、雨が降らないのでしょうか。それを僕は、釈尊が「心」について、語っているからだと感じました。あなたは、どのように感じましたか?


(次回はミッセイ流文章術にも話が及ぶ予定です!)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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