となりの坊さん。

第13回 「"ゆるす、なだめる"、状況打開のヒント」(前編)

2011.03.09更新

 生まれてきたものは必ず滅するものです(生者必滅!)。
 僕は「坊さん専用カタログで買ったバリカン」を持っているのですが(拙著『ボクは坊さん』に詳しい)、そのバッテリーが使えなくなってしまいました。「あ、そう」などと、気楽に言わないで頂きたい。なぜならバリカンの充電式バッテリーが、「終わる」ということは、いつもは元気に動いていたバリカンが、散髪(剃髪)の「途中」で息絶えることを意味するからです。

 その日の夜、僕は翌日の儀式に向けて上半身裸、下半身パンツ一枚で剃髪をしていました。バリカンを使い始めてものの3分、静かにバリカンは、動きを止めました。

「まだ半分しか剃ってないんですけど!」

 もちろんバリカンは答えてくれません。考えてみたら、24歳で住職になって以来、10年近く僕のために働き続けてくれたのです。僕は呼吸を整え、深呼吸をすると風呂に入っている間、充電してみようと思い、約一時間後再びスイッチオン。今度は30秒ぐらいで、ピクリとも動きません。
「こ、このままでは、なんとも中途半端な髪型のままで、朝を、そして儀式を迎えることになるじゃないか!」
 虚空に向けて僕は考えると、解決方法を模索しました。夜なので、散髪屋さんは開いていません。思いついたのは、愚直で原始的方法だけでした。
"5分ぐらい充電するたびに、10秒ほど使える。それを僕はひたすら繰り返すしかないんだ"

「やるっきゃない」

 僕は、自分に向かってつぶやきながら、実際に途方もない永久運動を繰り返しました。考えてみたらカミソリで剃ってしまえば、なんの問題もないのですが、僕は肌が弱いし、ほとんどやったことがないので恐いのです。

 翌日、儀式を無事終えた僕はバリカンメーカーに電話をかけて、新しいバッテリーを注文することにしました。

「すいません。充電バッテリーが終わったので、新しいバッテリーを注文したいんですが・・・」
「はい、はい。バリカンの品番をどうぞ。えっ、その機種はもう製造してないですよ。専用バッテリーが切れたら、新しいバリカンを購入するしかないですね。バリカンの"刃"は使えますので」

 なんということでしょう。大量生産、絶版の波は出版業界だけでなく、バリカン業界にも来ているのです。でも、10年使ったんだからと気をとりなおし、再び思いを巡らします。

「オレ、ついでに新しい0.5ミリの刃も買っちゃうもんね!」

 そうなんです。僕は今まで1ミリの刃と0.1ミリの刃を持っていたのですが、1ミリだと「丸刈り君?」という感じになり、0.1ミリだとツルツルすぎて、肌が痛かったり、荒れたりしていたのです。そこで折衷案的0.5ミリの導入を心待ちにしていたのは、そうです、私です、愚弟ミッセイです。

 しかも現行機種のラインナップをみてみると、「充電・交流両用タイプ」が鎮座しているではないですか。つまり、つまりですよ(力が入る)、"充電電池が切れても、コンセントをプラグインするだけで、続きができる"そういうことなんです。ああ、今そこにあるしあわせ。昨日の大惨事を前にしては、そう呼ばずして何と呼べばいいのでしょう。これです。これしかありません。「これください」

 しばらくして無事、届いたバリカンを前にして、僕はほくそ笑むと充電を始め、髪が「刈り頃」になるのを待ちました。
 そして長い冬が明けた頃(そこまで待ってないか)、新機種、0.5ミリにて剃髪開始、やはり新しい機種は動きも滑らかです。と思い始めた矢先、再び、バリカンが動きを止めました。「えっ、まだ使い始めたばかりなのに! はじめだからかな」と戸惑いながらも、この瞬間をいつかは迎えたいと無意識に考えていた自分を発見しました。続きを交流式、つまりコンセントに接続して使えば問題ないのです。そのために、この機種を買ったのですから。
 はやる気持ちを抑えて心静かにプラグイン、鼻歌交じりにご機嫌でハミングしながら、自信満々でスイッチオンしました。

「ミンッ!」

 バリカンは、そんな、哀しげな音を0.5ミリ、いや0.5秒ほど鳴らすと、ピクリとも動きません。何度繰り返しても同じです。ある四文字が僕の脳裏に不吉に浮かびました。

「初期不良!」

 僕ははじめて、「カッパ」のようになった髪型のまま、眠りにつくことを余儀なくされました。
 翌朝サービスセンターのおじさんは、
「ああ、じゃあ数日後、お送りしますのでー」
 と悠長な雰囲気でした。仏教の思想は、時に論理的なものでもあり、また教条的な倫理道徳を越えたものであると感じていますが、もちろん、身近な生活のルールにも活かせる言葉、思想がたくさんあります。


「善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出さすな。善い言葉は口に出した方が良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす」
(『ウダーナヴァルガ』第八章、八)



 そんな言葉は、もちろん示唆深いものですし、近年、社会全体がクレーマー化している雰囲気を感じ、またそれを「こころ」にとって窮屈だと感じています。最近、祖母がふとつぶやいていた「言葉というのは、取り返すことができないから、気をつけて使わないとね」という言葉にも深く、膝を打ちました。
 しかし、僕は思いました。

「オレね、今、"カッパなの"。ふざけるなよ」

 実際には言いませんでしたが、ただならぬ雰囲気を感じたおじさんは、

「申し訳ありません! 早急に代替わり品を用意します。そして充電器をもうひとつお詫びにプレゼントいたします」

 普通、バリカンの充電器ってふたつも必要ないでしょ、と思わず心のなかで突っ込みながも、意外と便利かなぁ、と考え始めた自分を我ながら能天気な人間だと思います。


 「怒り」に関連して、ここからは自分でも考えながら書き進めるのですが、最近、お坊さんの名簿をチェックしていたら「宥(ゆう)」という字を使った僧名(お坊さんの名前)が、結構あることに気づきました。僕の知り合いにも宥健(ゆうけん)さんというお坊さんがおられますし、歴史的な僧侶の中にも宥快(ゆうかい)さんなどがおられるので、昔から仏教で大事な言葉とされてきたんだろうと想像します。
 この字の訓読み、意味は「なだめる」「ゆるす」というものです。

 「世を問う」「汚れきった現代と戦う」そんな言葉は、時に受け入れやすく耳あたりもいいですが、「人を"ゆるす"」「世を"なだめる"」、ゆるやかにする、寛大に処する、なだらかにする、そんな対処方法がとれる場面があるとしたら、もしかしたら実際にはその方が、現実的に意味のある、つまり役に立つ思考方法になるのかもしれない、ということは、心のどこかにメモのように記しておきたいと思いました。

「僕たちはゆるせるはずの人を、ゆるしていないのかもしれない」
「私たちは、なだめられるはずの何かを、もしかしたら、むしろ煽っているぐらいかもしれない」

 そんな問いかけを、仏教にヒントを得て自らに問いかけることは、なかなか悪くないことのように僕には思われます。

 でも、難しいですよね。「ゆるそう」「なだめよう」言葉にするのは簡単でも、一見、退屈な坊さんの道徳的なお説教でしかありません(ドキッ)。僕自身も、ゆるせないことは多いですし、「ゆるさない」ことだって大切なシーンはあるでしょう。

 そうであっても、この文章に生活のなかで出会ったことも、ひとつの意味のある偶然ととらえて、心落ち着けて、「そんなに恨むことでも、騒ぐことでもなかったかな」と思えたならば、それにチャレンジしてみるのもいいように感じます。
 ここには、書きませんが(書けませんが)、僕自身、ゆるしたいことと、なだめたいこと、を今、思い浮かべました。
 「ゆるす」ことはどこか「ゆるされる」ことと、似ているように思われて、心がしんみりとしました。あなたはどう思われますか?

 ちょっと考えてみると、明らかに私たちは「怒ったり」「煽ったり」する本能を持っていて、その本能を「ほったらかし」にすると、人間はオートマチックに「怒ったり」「煽ったり」するでしょう。
 はじまりの仏教が本来的に求めていたことは、そういった感情を根こそぎ除去しようとすることだと感じることがありますが、この連載で私たちが探している雰囲気は「仏の教えをひとつのきっかけにして、そこから生きることのヒントを考えてみる」ことだと思います。そこで、まずは完全に除去することが難しくても(すごく難しいと思います)、「私たちは、本来的に"怒り"や"煽り"といった本能を持っていて、それが時にとても危険なものだと認識する」という現状認識自体が、じつはとても貴重な「確認作業」だと思っています。


(バリカンの顛末から「怒り」の事を考える・・・。次回のミッセイさんの話は「今、そこにあるもの」を見つめることに、話が続きます)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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