となりの坊さん。

前回は、「怒りのバリカン事件」の顛末でした。今日は、ミッセイさんが仏教を手がかりに考える"状況打開"のヒントにも話が及びます)

第14回 「"ゆるす、なだめる"、状況打開のヒント」(後編)

2011.03.14更新

 ある脚本家の方と、ゆえあって数日間お寺で朝から晩まで時間を過ごすことがありました。普段は、ひとりで働くことが多いので、強く客観的に感じることは少なかったのですが、お坊さんの仕事というのは、本当に「同じことの繰り返し」が多いなぁ、ということを改めて感じました。
 日々の読経、お供え、お遍路さんへの納経帳に「阿弥陀如来」と書くこと、掃除、けっして僕は勤勉な僧侶とも我慢強いお坊さんとも言えないと思いますが、それでも繰り返しの多い役わり、仕事です。
 そこで、「いつも」というわけではないし、これからの自分へのエールも込めて、なのですが、そういった「繰り返し」の作業に対して、自分がどのようなモチベーション、態度でのぞんできたかな、ということを思い出すように考えていました。そしてそれが、様々な困難な場面で身近な解決の糸口になる時もあるように思うのです。
 それは、ひとことで言うと、

「そこには、まだある」

 と考える態度です。もちろん、普段とはあまり代わりばえのない散歩道の風景を眺める時などは、心ゆくまでリラックスしてぼーっとするほうがいいように思います。しかしある場面においては、その見なれた「繰り返し」の対象や、行為を心の底から、また目一杯身体を使って、見つめ尽くそうとする。「そこには、なにかが、まだある」と想像して、力を尽くす。すると、ほとんどの場合、「そこには、まだ、なにかがある」のです。工夫の余地や、「おもしろさ」のすき間が。


「かれらは、過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている。それだから、顔色が明朗なのである。
 ところが愚かな人々は、未来のことにあくせくし、過去のことを思い出して悲しみ、そのために、萎れているのである。――刈られた緑の葦のように」
(『サンユッタ・ニカーヤ』第一章 二)
 


 僕のような情けない凡夫と比べると、仏典の言葉は、やはりどこまでも静かで穏やかな心を喚起するものではありますが、「今、ここ、を見つめる」そのような"焦点"を同時に仏の教えは想起してくれます。
 僕たちにとって、未来は輝かしいと同時にひどく不安で恐いものです。そして過ぎ去った過去は、時に悔しくてかなしい。そういったものから、逃れることはひどく難しいけれど、ほんの少しだけ、「今、ここ」にしっかりと薫る「ここにあるもの」を見つける。「そこには、まだ、なにかがあるかもしれない」と想像する。そういう気持ちを僕は大切にしたいと思います。

 それとは、すこし対極的な方法で、やはり僕が、仏教をヒントにして大事にしている方法をひとつ紹介しようと思います。

 今、お寺の工事で工務店の職人さんや現場監督さんなどと関わることが多く、自分自身もわずかではあったけれど、過ごした会社員生活を思い出すことがあります。僕は、アルバイトの人に仕事を教えたりすることが、これまたあまり得意ではありませんでしたし(残念!)、優秀な社員であったわけでもありませんが、わりと自信をもって同僚にアドバイスをしていたことが、ひとつだけあります。それは、

「(できれば)不満は本人に直接、褒めるのは他人に間接」

 というモットーです。働いたり生活をしていると、「あの人のここが、どうしても、やだな、直して欲しいな」ということが、発生します。それを、間接的に言ってしまうと、
「佐々木さんがぁ、向井部長のぉ、しゃべり方がぁ、がさつでぇ、胃に穴があくっていってましたーー」(こういう人って実在しますよね)

 ということになり、向井部長(仮名)としても、「佐々木君(仮名)、吉井さん(仮名)に言わずに、オレに言ってよ。プンプン」となってしまいます。でも工夫して、ユーモアを交えつつ、「じつは、あなたの話し方で傷つくことがあるんです」と表現すれば、ハッとして是正されるきっかけにもなり得る(可能性もある)と想像します。

 逆に「私、白川さん(本名)って、絶対、将来有望だと思う」と言われると、悪い気はしないけれど、心のどこかで「ああ、お上手で言ってくれてるのだろうな・・・」という気持ちにもなりました。しかし「五十嵐店長(仮名)が、白川君って、絶対伸びる奴って言ってたよ」と言われると、「そんなことないっすよー」といいながら、すごくうれしいんですよね、不思議ですが。
 今から考えると、ずいぶん会社員時代、人と人との関係、コミュニケーションに気を遣っていたんだな、と思います。

 仏の教えにおいても、例えば華厳哲学の「存在論的関係性」(なんというややこしい呼び名!)とも呼ばれる考え方があり、(例えば)1、2、3、4の各要素は、物それ自体の本性(自性、じしょう)というのはなくても、それぞれ同士の「関係性」がある。つまり1という存在は2、3、4との関係性で成り立っており、その「すべてが関係しあっている」こと自体が、1を1たらしめ、2を2にしているので、「関係性」を抜いてしまうと、なんにも存在できなくなる、と僕は理解しています。

 弘法大師、空海にもこのような言葉があります。


「いわゆる訶字門一切諸法因不可得の故に。何をもっての故に、諸法は展転(ちんでん)して因を待って成ずるをもっての故に、当に知るべし、最後は依なし。故に無住を説いて諸法の本(もと)となす。然る所以は、種種の門をもって諸法の因縁を観ずるに、ことごとく不生なるが故に」
(弘法大師 空海『吽字義』)


現代語訳 いわゆる〔訶字門〕というものは、あらゆるものの〔因〕がとらえられないことを表しているためである。なぜならば、すべてのもは、常に変化しており、必ず何らかの〔因〕があって初めて成立しているからである。当然、(原因の原因をつぎつぎに尋ねて行くと)最終的によりどころとなるような固定的実体のある原因など存在しないことが知られるはずである。したがって、〔無住(とどまることのないこと)〕をあらゆるものの根本であると説くのである。なぜならば、種々の方法によって、あらゆるものの〔因縁〕を観察すると、すべてのものが固定的な実体のあるものから生じたものでないこと、すなわち〔不生〕であることが、判明するからである


 一見、とても難解にも思えますが(そして実際、難解だと思うのですが)、あえてシンプルに捉えてみると、すべてのものの原因をさかのぼっても、根本的な原因などなかった、あらゆるものがあらゆるものと関係しあいながら、変化し続けていただけだった、という感触が心のなかに拡がってくる言葉です。

 そして、身近な生活にぐぐぐっと引きつけて、あらゆるものが関連しあって、動き続けているという認識から、僕は何かに行き詰まった時、「まったく関係のないこと」を動かすことを試すことがあります。

 例えて言うと、みささんが男女関係に行き詰まった時に、毎日ランニングを始めたり、仕事がどうもうまくいかない時に、将棋にはまってみたり、ある人が恨めしくてしょうがない時に、南米に行ってみたり、原因不明のめまいが続く時に知らない作家の本を立て続けに読んでみたりする。そんなことが、意外と有効なことがあるように思うのです。

 同じような意味合いで、世の中には「得意なことをおもにする」人と「苦手なことも、する」人に二分されるように思いますが、僕は今まで、「得意なことをする」タイプの人間だと自分を感じてきました。
 これからも基本的に、そうしようと思っているのですが、例えば百点満点で30点ぐらいしかできない分野のことが、38点になった時に、関係性や物事が「ゴソッ」と動き始めることだって、大いにあり得るように思いました。
 第一、そういう風に感じていた方が、苦手なことにチャレンジする時に勇気が湧きますよね。

 今回は、「ゆるす」「なだめる」ということ、そして「今、ここにあるもの」「関係性」をみつめることで、ちょっとした「状況打開」のアイデアについて、仏の教えをヒントに考えてみました。それぞれがまったく無関係のようにみえて、各々のトピックが結構、結びついた話題のように僕には思われます。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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