となりの坊さん。

(今日の後半では、震災について、仏の教えをまじえて伝えます)

第16回 「音楽が聞こえる」(後編)

2011.04.27更新

 想像を絶するような死者と傷ついた人たちを生んだ災害が、僕たちの住む日本で起こりました。一週間ほど経ったある日の夕方、お堂の施錠をしていると、知り合いの若いテレビ局の記者が久しぶりにお寺にやって来ました。被災した現地を取材して、精神的にも小さくはない衝撃を受けているようでした。

「今、密成さんがなにを考えているか知りたくなって」と彼は言いました。僕の言えることは本当に少ない言葉でした。
「規模が巨大すぎて、正直言葉を失いました。でも、このことを通じて僕たちが気づくこと、気づかなければいけないこと、も多いのでしょうね・・・」
「はい。悲惨な病院の現場のなかで、僕が感じ続けていたことも、今まで感じたことのなかった人々が共に生きる"善き心"のようなものでした。うまく説明できませんが・・・」

 これから、今まで以上に僕たちは、なにかを「決める」ことを求められる場面が、否が応でも増えてくると想像します。その時、僕が大切だと感じることは、「わからない」ことと「間違い」を認める態度ではないかと感じています。だって、誰にも「わからない」ことが多いに決まっているし、時に「間違う」ことも少なくはないはずですから。

「わからないけれど、今、僕は自分の判断で、こっちだと思う。そこへ行こうと思う。三年後には、逆のこと言っているかもしれないけれど、一緒に行かないか」

 そういった言葉に、怒りで反論するのか、「そうか。僕はこっちに行く。また、会えたら、会おう。どこかで」と勇気をもって光を見て笑顔で、泣きながらでも伝えられるか。そして、どちらかの「間違い」が判明した後でも、お互いを許しあえるか。そこにも僕たちの「これから」はかかっているように思うのです。もちろん大きな組織ベースのことと個人ベースのことでは違った文法が必要になるとは思うのですが。


「他人の過失を探し求め、つねに怒りたける人は煩悩の汚れが増大する。かれは煩悩の汚れの消滅から遠く隔っている」
(『ダンマパダ』―法句経―第十八章二五三)



 相手のあら探しをする余裕はたぶん僕たちにはありません。

 しかし"同時"に、今こそ「有効で適切な非難、反論」が求められている時は、ないように思います。矛盾するような反合理的な言い方ですが、その両方が強く、求められているようです。ブッダの言葉に耳を澄ませてみようと思います。


「称賛してくれる愚者と、非難してくれる賢者とでは、愚者の発する称賛よりも、賢者の発する非難のほうがすぐれている」
(『ウダーナヴァルガ』―感興の言葉―第二十六章二三)



 「賢者とは誰か」「自分自身が少しでも"賢者"に近づけるか」すごく困難な道であっても、険しい道を前に進むしか道はないのかもしれません。

 『理趣経(りしゅきょう)』という密教経典のなかで、「蓮華のような清らかなお顔で、ほのかにほほえみ、しかも、たけだしく眉をひそめ、荒々しく見て、するどい牙(きば)をむき出し」。(宮坂宥勝訳)という姿の仏が登場します。そのようなギリギリの矛盾した態度。笑顔で内心怒り狂い、怒りに満ちた表情で心のなかでは微笑する、そのような場面もこれから、あると感じます。

 このようななかで、「祈り」という言葉を多くの人たちが使いました。僕自身、この言葉を何度か反芻することがありました。今、僕にとって「祈り」とは「時間をかける」ことです。

 あるチベット人の僧侶が法話のなかで、「幸せになりたいからといって、"しあわせになりますように"と何度お願いしても駄目です。具体的な方法を模索しなければ」という意味のことを言われて、僕も膝を打ちました。「そうだなぁ」と。しかし、だからといって、たとえば仏にお茶や香をわざわざお供えすることを、無駄なことだとは思いません。なぜか。そこには「時間」がかかるからです。「自分は、これを大事にする」その確認作業としての「時間」とその「積み重ね」それが、今の僕にとっての「祈り」だと思いました。


「若しくは行、若しくは座、道場即ち変ず。眠に在るも覚に在るも、観智離れず。是を以て、朝日と与(とも)にして長眠を驚かし、春雷と将(とも)にして以て久蟄(きうちふ)を抜く」
(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第二)


現代語訳 歩いている時も座っている時も、そこがそのまま道場の場に変わり、眠っている時も目覚めている時も、心と法を観ずる真実の智慧はついてまわる。だからこそ朝日と一緒になって長き眠りを驚かせ、春雷といっしょになって冬ごもりの虫を引きずり出されたのだ


 空海の師、恵果の碑文で空海が発した言葉です。歩いている時も、眠っている時も、とは凡人の僕たちは、なかなかいきませんが、「時間を積み重ねること」そのことを僕は胸に留めておきたいです。

 僕は、今、自分自身が四国遍路を廻る時期だと漠然と感じ始めています。僕は海や山、自然が大好きですが、たとえば高知の太平洋を海際で眺める時、そこには今までの羨望の視線だけではなく、「恐れ」の気持ちが沸きあがってくるに違いありません。しかし、それを含めて、人は「畏敬の念」と呼んできたのでしょう。人は自然から与えられ、奪われた。そして、自分たち自身がまさに"自然"であるがゆえ、生まれ、滅していく。そのことを、もう一度、繰り返し、時間をかけて、思い出したくなっています。悲しみの涙のなかであっても。


「雞黄(けいくわう) 地を裂き
 純気 天に昇る
 蟾鳥(せんう) 運転して
 万類 へん闐(てん)す
 山海 錯峙(さんぢ)し
 幽明 阡(みち)を殊(こと)にす
 俗波は生滅し
 真水は道の先なり」
(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第二)


 現代語訳

  天地の混沌たる中から、大地は天から引き裂かれ
  純粋の気は上に昇って天となった以後
  月と日は回転し
  万物は集まりうごめく
  山と海は配置され
  あの世とこの世は分け隔たれた
  世俗の世界は生成滅亡をくりかえすが
  真理は人の道を先導するものである


 しかし、その騒然とした現実のなかでも、僕はやはり自然への敬慕をたしかに胸のなかで感じます。


「山也(や)崢嶝(さうくわう)たり
 水也泓澄(わうちょう)たり
 綺花(きくわ) 灼灼(しゃくしゃく)たり
 異鳥 嚶嚶(あうあう)たり
 地籟(ちらい)天籟
 筑(ちく)の如く箏(さう)の如し
 異人 乍(たちま)ちに浴し
 音楽 時に鳴る」
(弘法大師 空海『遍照発揮性霊集』巻第二)


 現代語訳

  山はごつごつとそびえ
  水はすみわたる
  美しい花はきらきらと輝き
  珍しい鳥はピイピイと鳴く
  地上の響き、天上の響き
  筑(こと)のようであり、箏(こと)のようである
  すぐれた方がふと訪れてその中にひたると
  音楽がそれに応じて鳴りわたる


 この世界を敬慕することは、たぶん僕たちを敬慕することです。
 今日も音楽がきこえます。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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