となりの坊さん。

前回は、ミッセイさんの結婚式のお話しもありました。今日の後編では、密教の「直感」、「身体」、そしてボブ・ディランまでお話しが続きます)

第18回 私は身体で読もう―入我我入(にゅうががにゅう)とボブ・ディラン―(後編)

2011.06.02更新

 僕が修行をした真言密教は、他の仏教と比べても様々な側面があり、そのなかでも「象徴性」(文字や仏具などの「形」「音」でも、教えを表現する)、総合性(様々な思想や宗教、民間信仰の要素が散見される)、体験の重視、救済の信仰、実践の原理などが、"すべて"含まれているのが、「真言密教」である、と口を酸っぱくして伝えられました。

 密教は、極めて総合的な性格があるので、ともすれば特定の要素をみつけてきて、「これも密教的、あれも密教的」という話になりがちだからだと思います。
 そのなかでも、おそらく「体験の重視」という側面からよく語られる、密教の「直感」を重視する態度について考えることが、ここ数年よくありました。これは、ただの知識に留まらない自分が腹の底から正直に感じることを、積み上げていくことを「教え」に盛り込んでいくことだと感じます。

 それを、グッと日常生活の大小のシーンに引き寄せて考えると、「その場、その時間」という急な場面でも、できるだけ「ベター」な、「致命的な間違いの少ない」判断や行動をするための感性を鍛えることの意味を思い浮かべました。

「でも、そんなことを、どうやって普段の生活のなかで鍛えるんだよ」

 その通りですよね。なかなか難しい。でも僕がよく「遊び」のように繰り返してやっている方法が、日常生活のなかでの些細なことを、渾身の力を込めて「当てよう」とするんです。今、何時何分頃なのか、約束したあの人は、何時ぐらいに来るか、今日の午後は雨が降るだろうか、観ている野球のピッチャーの次の球種はカーブだろうか、次々に「当てようとする」と、「意外と力を尽くしては、考えてなかったんだなぁ」と感じます(ずっと、そんなことをやると疲れるので、当たり前ですが)。

 ここで言う「力を尽くす」ということに対しても、思うところは多く、本当に力を尽くす場面は、たくさんあるし残っているのだなぁ、と痛感します。

 考えてみると、かなり馬鹿らしいことを、やっているような気もするのですが、『華厳経』に言う「一即一切・一切一即」(一のなかに、一切を含み、一切のなかに一が遍満している)という考え方と照らしあわせてみたりしても、細かい微細なことに「ふん」と、力を込めて感じようとすることは、必ずしも悪いことではないように思います。

 そしてその時に、机上の論理的な考えを自分なりに尽くしながら、どこか頭だけでない心身の全身で感じようとする態度も大乗仏典から聴くことができます。


「私は身体で読もう。ことばを読むことに何の意義があろうか。治療法を読むだけならば、病める人にとって何の役に立とうか」
(『菩提行論』サンスクリット原文和訳、中村元)


「口に誦ずるも身に行わざらば、当に何に喩うる所を得うべき。  譬(たと)えば重病人に空しく薬を談ずるが如し」(漢文書き下し文)


 これは行動や行為を喚起する言葉のようにも感じますが、「私は身体で読もう」なんて、まるで本のタイトルになりそうなぐらい、響いてくる言葉ですね。胸のなかに僕もメモしようと思います。

 結婚生活をはじめて、また仕事を通じて痛感することは、自分自身が本当に未熟な人間であることです(ああ、本当に・・・)。時に怒り、すね、ねたみ、「本当に俺、坊さんかよ」と呆れてしまうことだってあります。

 しかし、今、自分でも確認するように思うのですが、今日お話ししたような、できる限り「間違わないように」考えようとしたり、また「直感」で鋭敏に感じようとすることを、なぜ自分たちがしようとするかを思いを巡らしてみると、僕たちはどこかで、いつも何かに"出会おうとしている"という気がしたのです。時に、それはどこかの雑草が教えてくれる、小さな「本当みたいなこと」であり、自分ではない誰かが教えてくれる、「些細なこと」だと思うのです。

 この世界で自然や身体、他者という「誰かさん」と"出会う"ということは、たぶん自分と出会うことであり、発見することです。だからこそブッダや弘法大師は、このような言葉をまるで口を揃えるように、残したのでしょうか。


「ひとが何か或るものに依拠(いきょ)して"その他のものはつまらぬものである"と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真理に達した人々>は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない」
(『スッタニパータ』七九八)


「伝法の聖者秘を知らずして顕を知らずして顕を伝ふるに非ず。知って相譲る、良(まこと)に以(ゆえ)有り。末学此の趣を知らず。人人(ひとびと)自学を以て是とし、家家(いえいえ)未だ知らざるを以て非とす」
(弘法大師 空海『続遍照発揮性霊集補闕鈔』巻第九)


現代語訳 仏の教えを伝える聖者は、法身の説法たる秘教(*密教 白川註)を知らないで顕教(*密教以外の仏教 白川註)を伝えているのではない。まだなお時が至っていないことを知って、後人に譲っているのであり、理由があるのです。末流の者はこの真相が判っていない。それぞれの宗派の自教を是としており、四家大乗の宗門人はまだ知っていないとして非難する



 「自分こそ正しい」ということは、主張したくなりますし、伝えるべき時もあるでしょう。しかし、それに固執しすぎてしますと、少し逆説的な言い方になってしまいますが、「自分に出会えなくなる」ということを、この言葉から考えました。

 すべての事象と同じように、自己も移りゆき動いているのが自然な状態です。ですから、他者のなかに「正しさ」を喜び、自己に植えつける。「誰かを認め発見することは、自分との出会いでもある」今、自分にもかけたい言葉です(ポリポリと頭をかく)。


「"加持"(かじ)とは、古くは仏所護念といひ、また加被(かび)といふ。然れども未だ委悉(いしつ)を得ず。加は往来涉入をもつて名とし、時は摂して散ぜざるをもつて義を立つ。すなわち入我我入(にゅうががにゅう)これなり」
(弘法大師 空海『大日経開題』)


現代語訳 「加持」とは、古い翻訳では、仏に護られ念じられるといい、または庇護を加えるという。けれどもまだくわしくすべてを尽くしているわけではない。加は往(い)ったり来たり互いに入りこむをもって名とし、持は摂(おさ)めてばらばらにしないことをもってその意味をたてる。すなわち、我に入り我が入るということがこれである


 ここで「加持」という言葉から、密教でとても大切にされる「入我我入」(にゅうががにゅう)という言葉が出てきます。仏と修行者の関係は、仏が一方的に力を加えるものでもなく、修行者だけが仏に向かうものでもなく、相互的な力が加わった時に本当の意味での「加護」を得ることができる、と僕はとらえています。

 この「力の動き」、つまり"我に入り我が入る"という動きは、仏との関係のみではなく、僕たちの人生のなかでもキープしたい思考の「標準点」にしたいと思いました。僕もいるように、あなたもいる。そのお互いが時に混じり合い、更新したり交換したりしながら、時間を共にしていく。それが自然な常態である。考えていないとつい、忘れてしまいそうなことですので、こちらも時々、じっと見つめていたいことです(ボリボリ)。

 そして、それを踏まえたうえで「私の道」を歩きたいと思いました。

***

 僕が書店に勤務していた時の友人が披露宴にプレゼントで持ってきてくれたミュージシャン中村一義さんの自伝インタビュー集『魂の本』(太田出版)読んで、ラーズや、トッド・ラングレンのCDを久しぶりにゴソッと大人買いしました(ちなみにこの本には、テレビでダウンタウンの「ガキの使いやあらへんで!」を観て自殺をやめたという超絶エピソードも含まれます)。そのなかに、なぜか青春時代に触れることのなかったボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」があり、生まれてはじめて聴きました。

 車のなかで聴くその曲は、僕がここしばらく心に引っかかっていたことを、示し融解してくれるように響き、僕は思わず涙を流してしまいました。そして、なぜだかこの曲を街に響かせたいと思い、ボリュームを少しだけあげて、窓を開けました。

「どうして、知らない言語で歌う、このおじいさんのような若者の声とメロディーは、僕を打ち抜くのだろう」

 喜びの涙でも悲しみの涙でもなく、その両方を含みながら、違う何かを加え、僕は涙を流し続けました。
 偶然、白装束の歩いているお遍路さんたちとすれちがい、僕は知らないその人たちにふっと手をあげました。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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