となりの坊さん。

前回は「神秘的なことへの対応」のお話でした。今回は「戒律」から―マイナスの動き―についてお話しします!)

第20回 神秘の準備(後編)

2011.06.24更新

 今回はいつもとは、ちょっと毛色が違う話でしたので、最後に、もしかしたら気軽に役に立つかもしれない話をしようと思います。

 ある結婚式で、高野山の老僧が話されていたことを最近、たまに思い出します。それは「戒律(かいりつ)」には二種類あるという話でした。「戒律」というのは、ご存じのように仏教教団の修行、生活規範のことです。どんな二種類があるのでしょうか。

 その場所は、結婚式の会場でしたので、とても丁寧に話されていましたが、端的に言うと「戒(かい)」は自発的な決心であり、「律(りつ)」は他律的、つまり他人から受けるもの、という話でした。そして、
「"戒律"というと、他から授けられるルールのように感じるが、自らが宣言して自立的に守る"戒"の精神を大切にしてください」
 という話だったように記憶しています(気に入った方は、どうぞ会社の朝礼などでもお話しください)。

 今この「戒と律」の話を思い出すと、「戒」は足し算で、「律」は引き算みたいだなと思います。この話を聞いた時は、今よりもずいぶん若かったこともあるのかもしれませんが、「そうだな、人から押しつけられるルールよりも、自主的な"戒"の気持ちこそ大事だ。格好いい話だな」と思ったのですが、今になって自分自身がよく考えることは、「足し算」と供に「引き算」のあることの「凄味」のようなものです。おそらくその老僧も、その意図を含んでお話しされていたのだと思います。

 「他律的」「他人から受ける」ということから離れても、自分という個人のなかでも「なにかをやる」という事に加えて「なにをしないか」というある意味「マイナスの動き(引き算)」は、現状を動かしたり、よくするための大きなヒントが潜んでいるように感じます。

 例えばもっとも卑近な類の例をあげると、僕は今の仕事がなかなか順調に進まないので、「パソコンの前にいる」時間を今までの半分以下にしています。
 あなたが今、「やるべきこと」に加えて、「やらないこと」って、なんでしょうね。じっくり探すと意外といくつか見つかるかもしれません。「戒と律」をヒントにして、ちょっと時間をかけて探してみるのもいいかも、です。


「諸々の欲望には患(うれ)いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです」
(『スッタニパータ』四二四)



 ここでいう「出離」は、修行者に向けた宗教的な色彩が強い、俗世を離れ煩悩を去って悟りの境地に向かうことですが、あえて今の話に結びつけて、僕たちの生活を舞台に考えてみると、「出離」という動きも、ある意味で「なにを"しない"か」という「マイナスの動き」のように感じられます。

 「離れる」ことによって「楽しんでいる」、その姿をリアルにイメージすることは、遠い昔の修行僧に思いを馳せるだけではなく、今の自分たちの生活や仕事に小さくはない示唆があるように思うのです。

あなたは「なにをしない」ですか?
僕たちは「なにをしない」べきなんでしょうね。
心がそれを「楽しむ」ために。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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