となりの坊さん。

第22回 たいら(フラット)からはじまる人間関係(後編)

2011.07.28更新

前回は、沖縄での話でした。後編では「人間関係のヒント」について考えます)

 今日は、みなさんも僕も、おそらく考えることの多い「人間関係の気持ちのいい場所」について少し、考えてみたいと思います。職場やプライベートでの"様々な悩み"や、"心に引っかかること"、"うまくやりとげたいこと"のなかで「人間関係」の占める割合は、けっして少なくない、と想像します。

 僕自身、そういったことで思わず立ち止まって考えたり、困ったりすることも少なくないのですが、正直、「これ」という「都合のいい解決法」というのを、見出すのは難しいことだと思いますし、僕自身「人付き合い」が決して、いいほうでも、得意な方でもありません。心のなかに残っている言葉としては、人間関係を結ぶ相手が、とてつもなく大きな存在である場合は、「その人の子供時代を思い浮かべる」という言葉や、多くの人が集まっている場所では、「自分を一番低い場所に置いて接する」といった言葉をよく思い出します。示唆のある言葉だと感じますが、情けない僕のような人間は、いつも忘れがちで実行も難しいです。

 考えてみると、そんな風に「人間関係」のことを考えすぎることは、「仏教的」とは言えないかもしれませんが(言えないでしょう)、実際問題として生活者として生活を送っていますと、頻繁に浮かびあがってくるトピックです。また、残された多くの手紙などから弘法大師も、「人間関係」に細やかな神経を行き届かせる人であったと思います。とここまで書いて、今から書こうとしていたこととは、別のことを考え始めたのですが、弘法大師の手紙の文章から僕が感じるには、「"丁寧に柔らかく"、自分の思いをはっきり伝える」という特徴があると思いました。

期間を区切った修行中なので(位の高い人に)会いに行けない、とか向いていない仕事が多くなるので僧侶の位を辞退したい、とか結構「言いにくい」ことを言っているのにも関わらず、人間関係は円滑に進んでいる。それは、言いにくいことを言っているけれど、本当に力を尽くして言葉を尽くして「丁寧にやわらかく言っている」ということも理由だと思いました。

 合理的なことや結論が重視される風潮のなかで、「丁寧に柔らかく、そしてはっきり」なんて、くだらなく感じることもあるかもしれませんが、「同じ結論」を「丁寧に柔らかく」なるように力と智慧を尽くして伝えることは、僕自身、もう一度、確認して実行したいことです。

 そして、その「人間関係」の土台として僕が今、心がけたいと思っている定点は「たいら(フラット)」な関係を基礎とすることです。プライベートであっても、仕事であっても、多くの人間関係には「上下」が存在すると思います。それは、好むと好まざるに関わらず存在するものですし、あったほうがいい時もあるので否定するわけではありません。

 しかし、その関係を「ひとつ」だけでなく「ふたつ」で運用したほうがいいように思うのです。つまり、「便宜上、実務上、私たちの関係には上下はあるけれど、本質的な存在として、真っ平らの位置関係にある」そのことを、常に確認する、ということです。
 仏教においても、僕の学んでいる「密教」においても、その圧倒的な「平等感、フラット感」は繰り返し、様々な面で語られていると感じます。


「生きとし生けるものも、本来的にめざめている真実の体を有しており、仏と平等であるという点からいえば、この身とこの国土は、あるがままの存在以外の何者でもない」
(弘法大師 空海『声字実相義』現代語訳)


(【衆生にまた本覚法身あり、仏と平等なり、この身この土は法然の有(う)なりのみ】漢文書き下し文)


 思わず緊張してしまうような「えらい人」も、また逆に思わず「下」の立場に見てしまう立場や状況の人も、社会的な関係をはずし、"存在"から見れば、その両者が根源的には「たいら(フラット)」な存在でもあることを、繰り返し見つめる。その「対等さ」を瞑想する。本当に愚直な方法ですが、その認識から始まる「もっと気持ちのいい関係」、「不毛な軋轢の少ない関係」もあるように僕は思っていますし、至らない自分自身も少しでもチャレンジできれば、と思っています。

 このような「たいらでありながら、たいらでない時もある(逆もしかり)」のような認識方法は、仏教的な思考方法やアイデアを生活のなかに、交えていくために大切な方法になってくるように自分では考えています。
 例えば、仏教(と言っても、様々なタイプの仏教がありますが)のなかでも大きな考え方の特徴とも言える「無我」(我の存在を否定すること)や「空」という考え方にしても、すぐにすんなりと確信を持って心に収められれる人は、ごくわずかだと思います。

 しかし、「我、という存在が"ある"という言い方、捉え方もできるし、たしかに"ありえない"という捉え方も可能だよな」という認識であれば、多くの人が納得し、それを「しあわせのヒント」として用いることが可能のように思います。そのような「途中段階」を自ら認めるような方法も、仏教の叡智をヒントとして用いるために、「悪くない方法かも」と僕は思います。

 日々の生活のなかで、あからさまに上からモノを言われたり、言ってしまいそうになる時に、ふと思い出すように、存在としての「たいら(フラット)」な感覚を思い浮かべること、そのことを僕はチャレンジし、提案しようと思います。そこから、表現されてくる態度や言葉、雰囲気には、少し質感のことなったものを僕は思い浮かべます。

 そんなことをなんとなく考えていた沖縄で、こんな仏典の言葉に触れました。


「『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない」
(『スッタニパータ』八四二)



 「やはり、仏典の言葉はすごいな」と痛感した言葉でもありました。「上下なく、フラットで"等しい"」そんなことを、思い浮かべること自体が、すでに「上下」の概念によって考えてしまっている、そんなことを突きつけられるような言葉でした。
 しかし、僕が「たいら」という言葉から、直感的に伝えたくなったのは、この仏典が想起するような内容でも、同時にあるのかもと想像します。
 そして、すぐには深い理解ができないにしても、心のどこかに置いておきたい言葉になりました。
 「優劣」も、「等しさ」さえも消し去った世界。それはどのような心象空間なのでしょうね。

***

 最後に、もうひとつ、最近考えていることをひとつ短く、お話ししようと思います。
 それは、「うまくなる」ことって馬鹿にできないよな、と感じたことです。僕自身、平凡な凡夫ですので、「楽しいといいな」とよく考えます。そして、「どんな時が楽しいだろう」と改めてふと考えていたんです。そして、「上手にできることって、楽しいな」と思いました。
だから、当たり前のように感じるので、あまり深く考えてこなかった「うまくなる」ということを、もっと意識してみようと思ったのです。
 「うまくなる」というと、スポーツや実務的なことを思い浮かべますが、例えばそれが「仏教」の話だとしても、「うまくなる」という要素はいくつもあるはずです。「人を過度に傷つける欲望から離れるのが、"うまくなる"」「他人を利すること、自分を利することが、"うまくなる"」


「諸々の欲望には患(うれ)いのあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです」
(『スッタニパータ』四二四)



 「過度な欲望発揮の欠点」を感じとって、"出離"の安らぎを認識して、その実際的な方法を「うまくなって」、"楽しみ"を得る。僕は、この仏典をそんな風にも読みました。

 皆さんの生活のなかにも「うまく」なることで、もっと「楽しみが深まる」ことが、いくつもあるかもしれません。「早起きが、うまくなる」「正直に話すことがうまくなる」「亀を飼うことがうまくなる」
 少しでも、なにかを「うまくなる」ことを、思い浮かべ、そこに「楽しみ」のヒントがあると想像し、いたずらっ子の子どものようなワクワクする気持ちでいることは少なくとも、「うまくない」ことを気にしたり、あきらめたりすることよりも、いい気分だなと思いました。

 さぁ、なにを、少しだけでも「うまく」なりましょうか?

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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