となりの坊さん。

第23回 出し惜しみ(前編)

2011.08.16更新

 どんな仕事の世界にも「業界紙」というものがありますが、やはり「お坊さん」の世界にも、ほぼ「お坊さんによるお坊さんのための」情報紙や新聞のようなものが、いくつか存在します。そこに掲載されている「求人」も、やはり「お坊さん」の募集が掲載されていることが、よくあるのですが(そういえば高野山大学の学生掲示板には、お盆になると、"坊さんバイト"の募集がありました)ある日、紙面に掲載された言葉に目が点になりました。
 「求む、お嫁さん。 詳細在社」。
 「広告欄に結婚の求人? しかも"お嫁さん"って!」とか「詳細在社って!」となんだか、突っ込みどころが満載ですが、お寺の「後継者」や「お嫁さん」探しは結構大きな問題になっていて、本山が様々なバックアップを模索しているトピックでもあるんです。

 栄福寺の"お嫁さん"でもある、僕の妻は僧侶なのですが、結婚を機に現在の師僧(師匠の僧侶)から「師僧を御主人(僕)に変えておいたら」と勧められたらしく、妻も僕もせっかくの大切な繋がりなので、「このままお願いできたら・・・」と思っていたのですが、先方のご配慮もあり最終的には、僕が妻の「師僧」になることになりそうです。
 元々僕は「師弟関係」のようなものと縁遠かったのですが、人生で初めて形の上とはいえ「弟子」を持つことになりました。そんな中、あるお二人の言葉が不思議に似たことを述べていることに気づき、思うところがありましたよ。

 おひとりは、チベット仏教のニンマ派を中心に伝えられてきた「ゾクチェン」の師であるナムカイ・ノルブ・リンポチェの言葉です。


「ほかのレベルの教えにおいては、きびしい、きちんと決まった規則があって、万人に等しく適用される。だが、ゾクチェンの場合、段階を踏んでいく道と違って、あるレベルの修行や灌頂が終わっていなければ、より高いレベルに近づくことができないということはない。それは、ゾクチェンのやり方ではない。弟子は、ただちに最高のレベルに入っていく機会を与えられる。そして、その最高のレベルに必要な能力が欠けていた場合にだけ、もっと低いレベルに下りていく」
(ナムカイ・ノルブ『虹と水晶――チベット密教の瞑想修行――』永沢哲訳、法蔵館)

 そして、もう一方は、思想家であり、武道家の内田樹さんの言葉でした。

「それと、"奥義には順番があるから、まだまだお前には教えられない"という先生もいます。でも、どうなんだろう。奥義や秘伝というのは、実はいちばん最初に教えるべきものじゃないかと僕は思っているんです。最初に公開してもぜんぜんかまわないと思う」
(内田樹・成瀬雅春『身体で考える。』マキノ出版)


 読者の皆さんも、お気づきのように、ここで言われていることの共通点を見出すとすれば、「最初にすべてを伝える」ということであると感じます。僕の学んでいる「真言密教」の中では、それこそ口伝による「奥義」や「秘伝」"だらけ"の世界ではありますが、それには文章による「言葉」だけで"わかったこと"にしないで、師から弟子への「面授」によって直感や身体で腹の底から理解することを、意図したものであると感じています(僕は、まだまだ初心の行者ですが)。

 しかし、この言葉から、ふと空海(弘法大師)の人生に思いめぐらせてみると、彼の人生には一種、不思議な側面が数多くあります。日本から留学生として、唐に渡ったひとりの若い僧侶であった空海が、なぜ並みいる高弟をさしおいて、代宗、特宗、順宗の三帝から信頼を受け、「三朝の国師」とも呼ばれた恵果和尚(けいかかしょう)から信じられないほど豊潤で完備した密教の伝授を受け、果てには没後、唐のみならず東アジア各地から集まった門下を代表して碑文まで撰したのか、ということを考えると本当に不思議です。
 空海は、その時の恵果の様子を生々しいほどリアルに描写しています。まるで、当時の二人の息づかいまで聞こえてくるようです。


「私は前からそなたがこの地にこられているのを知って、長いこと待っていました。今日会うことができて大変よろこばしいことです。本当によかった。私の寿命も尽きようとしているのに、法を授けて伝えさせる人がまだおりません。ただちに香花(こうげ)を支度して灌頂壇に入るようにしなさい」
(弘法大師 空海『請来目録』現代語訳)

「我、先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好し、大いに好し。報名竭(つ)きなんと欲するに付法に人なし。必ず須く速かに香花を辦(べん)じて、灌頂壇に入るべし」
(漢文、書き下し文)


 恵果は、「あなたこそ法を受ける人だ。そして、私が授かったものをあなたに授ける」ときっぱりと宣言しています。

 このような示唆のある言葉や印象的なシーンから、私たちが日々の生活の中で、また人生の大事な場面で、ヒントとなる示唆を受けるとしたら、それは「出し惜しみしない」ことの大切さではないかと思います。

 もちろん経済的なことや駆け引きが当たり前でもある、人生や仕事の中で、まったく「出し惜しみ」のない生活などをが実現することは、極めて難しいと言わざる得ない思います。
 しかし恵果がそうであったように、「この時だ」という大きなタイミングを自分で感じとった時には、あらゆるものを総動員して「出し尽くす」。このことはとても大切な意味を含んでいると思います。

 僕は個人的にも、「出し尽くす」ことをあるイメージをもって、捉えることがあるのですが、それは心身の「熱気」のようなものは、"水流"のようなものであるので、逆に出し尽くさなければ、「次」の水が入ってこない、と考えています。
 「溜め込む」よりも、まず「出し尽くして」、「流し」循環させる、それはなんだか気持ちのいい心象風景のように感じます。

 また、当時無名であった空海が、向かった先が「恵果」という「誰もが認める超一流」の密教者であったことにも、個人的にはヒントを感じるのです。僕はこの"誰もが認める超一流"というのが、意外と馬鹿にできないことだとよく感じます。

 「超一流」の人は、逆の側面からみれば、相対している人物が、無名だから価値がないとか、社会的に名が知られているから興味を持つということが、ほとんどないと経験的に感じます。だからこそ、彼らはある意味、ギリギリまで耳を澄ませて、自分が欲している対象を求めています。
 そして、じつは「誰もが認める超一流」であるということは、客観的な事実であるように見えて、ある意味においては、「"あなたが、そう感じている"だけかもしれない」という主観的な事実を含んでいます。

 つまり、あなたが「超一流」とその人を感じ、認めているそれだけで、あなたはその人の「伝えたいこと」や「欲していることを」、空海がおそらくそうであったように、普通ではない精度で「知っている人」なのかもしれません。そして、それは多くの場合、「相手に伝わること」ではないでしょうか。
 "師"を探す中で、「まずは段階をふんでいつかは」と考えることは、とても大事な事ではあるけれど、上品に礼を尽くして、相手に断る権利、無視(沈黙)する権利をもちろん認めながら、そしてその人と交わり関係を結びたい理由が、「誰もが認める超一流だから」だけではなく「こころが動いた」ことであることを丁寧にチェックしながら、「一番好きな人」の門をたたく。ということは、とてもいい方法だと思います。

 これは、なにも「人」に限らず、「あまり考え込まず、一番やりたいことからやってみよう」というシンプルなモチベーションにも繫がる話だと思います。


(前半はここまでです。次回は、子供たちとの"お薬師さん"の話などに続きます)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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