となりの坊さん。

第24回 出し惜しみ(後編)

2011.08.17更新

(今回の話は、子どもたちとの話や居酒屋での会話から考えた、「敵」について、などなど・・・。)

 今年も、地元の子どもたちが栄福寺に集まって、薬師堂で薬師如来を供養する儀式、"お薬師さん"がおととい行われました。お経のあと、子どもたちに簡単な「法話」の中で、
「お坊さん(僕のこと)のじいちゃんが、住職の時に、ここに来ている子どもの中で、お寺や神社を造る宮大工さんになった人がいました。ここに毎年、来ているうちに、そういうことに興味が出てきたたらしいです」
 という話をしていました。そこで子どもたちに、「そういえば、みんなは、なにかなりたい職業ってあるの?」と純粋な興味から聞いてみました。

 小学校6年生の女の子は「お母さんが看護士なので、看護士になりたい」と言いました。となりに座った男の子は、「僕は野球選手になりたい」と言うと、となりの女の子から「ぜっったい、無理や」と突っ込まれて、恥ずかしそうに笑っています。そして4年生の男の子は「農業をやりたい」と言っていました。「家が農家なんですか?」と聞くと、「そうじゃないけど、お父さんの友達がそうで、それで」ということらしいです。「じゃあ、君は?」と小学校2年生の男の子にも話を振りました。

「僕は、ヒーローになりたい」
 とその子の発言に、子どもたちは苦笑していました。しかし、その子は続けます。
「そして、世界を救うんだ!」
 僕も笑いながら、「それはいいね!」と答えました。すると彼は、
「でもっ。僕には"永遠のライバル"がいるんだ」と声を張り上げました。
子どもって、本当になんだか面白いですね。

 すこしは仏教らしい(!)話も、しようと思い、
「お坊さんは、仏教のことを、"自分でもしっかり考えること"を大切にしているように感じています。でも、それは人の話をきくことも大切にしながら・・・」
 と話していると、その「ヒーロー」の男の子が口をはさみます。
「僕もある! 僕が話していると必ず**君が、聞かずに自分が話し始めるんだ」
「そっかー、それはよくないねぇ。だけど、ためしに今まで以上に、**君の話を聞いてみたら? もしかしたら、気づかずに自分も同じことをしているかもしれないよ」
「うん・・・」
 というようなやり取りがあり、「僕もそうだな。自分のことは、気づきにくいものな」と考えました。

 徳島に出張に行った夜、僕はひとりで居酒屋のカウンターに座りました。最初は本を読んでいましたが、しばらくすると御主人と奥さんと話すようになり、僕が「坊さん」であることも、話の流れの中で出てきました。そして、話題は現代の「宗教心」のような話になりました。

「僕は、お寺や仏教がそこまで大事にされなくなったように感じるのは、"送り手"である僕たち宗教者側の責任もずいぶんあると思うんですよ」
「いや、自分はそうは思わんな。お寺さんというよりも、おれら、周りのほうが変わってきたんよ。価値観というか、大事なもんが変わってきたよ。ちょっと注意せないかんと思う」

 という話になり、「あっ、このお互いが"自分の痛いところ"を認め合う話の展開って、ずいぶん久しぶりに聞く感覚だな」と心の中で感じていました。誤解のないようにいうと、僧侶である僕もついつい私生活の中で、また仕事の中で、相手に原因を見出し、そのことを責めてしまうことが少なくありません。そして、そのことは時に必要なことでもあると考えています。「ブッダ」の言葉を聞いてみようと思います。


「もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで優れたものは一つもないことになろう。世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである」
(『スッタニパータ』九〇五)



 自分を含めて、人間の姿をとてもリアルに写し出した言葉であると思います。どうしても、僕たちは相手の非を突いてしまいます。そのことの対策を考える前に、その現実、本能を確認しておきたいと思いました。


「見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放される。かれははからいをなすことなく、快感に耽(ふけ)ることなく、求めることもない。――師はこのように言われた」
(『スッタニパータ』九一四)



 あらゆることから「対立軸」であることを避け、「敵」になることを避ける。"負担"を離れて"解放"されるために・・・。僕たちはまた同じことを言ってしまいそうです。

「それが、できたら苦労はしないよ」

 しかし、今、私たちが「敵」だと感じているのは、本当に「敵」と呼ばれるべきものなのか? むしろそこには、自分の合わせ鏡のような姿を見出すことはないのか。「敵」なんてものは、自分がつくっているだけで、じつは存在しないんじゃないか。本当の「敵」とは、どのようなものか・・・。「敵」をつくらない方法ってあるのかな。
 そういったことは、少なくとも「じっくり考えるに値すること」であると僕は感じました。すべてが、できるわけでなくても、なにか生活の中でのヒントにしたい考え方です。

 せっかく、ちょっと「坊さんらしい話」が登場してきたところで、申し訳ないのですが、まったく「逆の話」をひとつ、紹介したいと思います。しかも、ちっとも仏教的でないと思います。

 最近、個人的に心が折れそうな経験をしました。それをここに詳しく書くつもりはありません。しかしその時、僕は「自分の人生にケンカを売られている」と思うようにしました。その話には相手がいて、僕は丁寧に話すその人に真剣に腹を立てていました。その時、「ケンカを売られている」と感じようと突然、思ったんです。そして、すぐに思いました。「よし、そのケンカ、買った!」すると、なんだか、落ち込んでいたのが嘘のように体に力がみなぎったのです(ははは)。

 もちろん、相手を具体的に傷つけたりするつもりは、まるでありませんが(というよりも数珠より重いものは持たないのでそんな体力はありません)、心の中での抽象的な意味で、「よし、そのケンカ、受けて立とう」という晴れ晴れとした気持ちが、元気に繫がることも実感として感じましたので、正直にお伝えします。これは、やはり苦しみの元凶となる「怒り」なのでしょうか。むしろ僕も読者のみなさんにお尋ねしたいです。

 生きるって、なかなか難しいけれど、やっぱり"喧嘩"するぐらいでしたら、「好きなこと」を地道にやっていたいですね(ポリポリと頭をかく)。と、今思いました(ぼりぼり)。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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