となりの坊さん。

(今日は、前回の続きの後半です。肛門科に生まれて初めて行きました・・・)

第26回 死者の世界にお邪魔する(後編)

2011.09.28更新

 「職業的なくせ」というものが、みなさんにも結構あると思いますが、僕の前職は書店員(本屋の社員)だったので、今でも本屋で本を探している人がいると、思わず「あるかな・・・」と棚を見渡してしまうことがあります。先日は、僕が「四国遍路コーナー」で立ち読みをしていたら若い男の人が、
「『ドライブお遍路』、っていう本ありますか?」
 と店員さんに聞いていました。店員さんはしばらく探して、「すいません、在庫にないので注文になります」と話していたので、(勝手に)探してみると違う場所で商品展開をしていました。

 店員さんに恥をかかせてはいけないなと思いながらも、住職としてひとりでも多くの人に、四国遍路に来てもらいたい思い、意を決して「あの・・・、ありました」と本を片手に小さな声をかけ、ダッシュでその場をすばやく去っていきました。幸い、両者に感謝されたような(たぶん)雰囲気でしたし、まさか僕が札所の住職だとはバレてはいないと思います(ばれたらちょっと恥ずかしい)。

 最近、生まれて初めて肛門科に行ってきました。理由はずばり、お尻がかゆかったからなのですが、幸いというかなんというか、ただのあせもでした。念のため(?)肛門を看てもらった後に病院の先生が、
「じつはトイレで読書するのは、よくありません。目安は三分かなぁ、大は。とにかく長い時間きばるのはよくないです」
 と話されていました。

「えーー、僕、トイレで本読むの大好きです」
「少なくとも肛門科的には。という話です。精神的な側面はわかりません」
 とハードボイルドに、キュウリみたいにクールに話されていました。
「少なくとも肛門科的には」なんて言葉、もう一生聞かないかもしれないなぁ、と笑いだしそうになるのをぐっとこらえ、
「教科書的な専門性、スタンダードと"自分で考えること"の関係はなかなか難しいことよなぁ」
 なんてことも、家に帰りながら考えていました。

 これについて、僕にはひとつの経験があります。子どもの頃、「そうめん」の自分なりのおいしい食べ方を発見したことがありました。そうめんを、つゆに全部つけてしまうとベチャとして、しかも麺自体の素直な味が口に飛び込んでこず、「半田そうめん」をこよなく愛する僕としては、いまいちだなと感じていました。そこで、魚の「刺身」の食べ方にヒントにして、刺身を食べる時に、醤油を刺身、全部につけずに、ちょこっと先につけるような感じで、つゆを少し濃くつくり、麺の先に少しだけつけて食べるようにしたのです。

 そして大人たちとそうめんを食べている時に、「僕は思うのだけど、先っぽに、ちょっとつゆをつけて食べるとおいしんだよ」と話しました。すると、「へー、あーくん(そう呼べれていました)は、大人みたいで、"通"だねぇ」と言われ、それが大人たちの間では、わりと一般的に流通している食べ方であると知り、「僕は自分で考えたのにな」と不満に思いながらも、ああ、やっぱり多くの人は似たようなことを考えていたのか、つまりこれは、かなり「いい感じ」の「おいしい食べ方」なのでは、と腑に落ち、今に至ります(ややこしい言い方ですいません)。

 つまり、なにを言いたいかというと、「自分で考えること(やること)」と「教科書的なスタンダードを知ること(実践すること)」、はたぶん両方大事に違いないし、様々な「例外」を含んだ話だとは思うのですが、その両方が、同時に発生した時にすごく附におちる、ということです。この経験は、何気ないことのように思えて、結構、自分のなかでは大きな経験でした。


「多く説くからとて、そのゆえに彼が道を実践している人なのではない。たとえ教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人、おこたって道からはずれることの無い人ー彼こそ道を実践している人である」
(『ダンマパダ』二五九)


 ともすれば、なんだかとても「教科書的」な印象をもたれ実際そういう側面もある、「仏法」の教えであっても、やはりここにある「たとえ教えを聞くことが少なくても、身をもって真理を見る人」という言葉のように、「身をもって」考え、実践することも重視しています。仏法もあらゆることもこのことが「サンドイッチ」になっていることは、結構多いように思います。「学びながら"やってみる"」「やりながら"学ぶ"」このことは、とても大事なように感じました。

 すこし話がずれてしまうかもしれませんが、僕はずっと例えば、ホームランバッターがホームランを打つような、出版社が本をつくるような、医者が患者を回復させるような、「根本の基本」って、今、日本に住むお坊さんにとって、なんなんだろう? ということを、考えていました。それは、たぶん色々な種類があるのだと思います。

 でも、最近になって「仏教の教えを聞いて、知って、おこなって、そのことで自分の心に、リラックスや平安といった変化をもたらすこと。そして、その変化を他の誰か、なにか、にもチャンスがあればもたらすこと」なのかな、と考えていています。「そんなことあたりまえだろ?」と言われれば、そうですよねと答えるしかないのですが、結構これも自分にとって附に落ちる経験でした。みなさんの役割や仕事にとっての「根っこ」って、どんなものなのでしょうか。

 なにかを大切なことを、心を落ちつけて考えるべき時、世間で当たり前に考えられているようなことを、すっと「考えずに」そのまま流してしまうことは、いい予感がしません。

 例えば、僕はよく思うのですが「東洋的」とか「西洋的」といった言葉からは、通常、「東洋的」には神秘的でマジカルな印象を持ち、「西洋的」にはなにか合理的で理知的なイメージを持つことが多いです。

 しかし、医療や科学の考え方などを例にとって考えるとしたら、その道の専門家ではない完全なる田舎坊主の僕の想像ではありますが、「薬」の効き方、科学技術などにおいて、むしろA+Bを「X」というまったく別のものに、まさにマジカルに変化させてきたのがいわゆる「西洋的」な方法であり、A+Bを「AとB」だと、愚直でシンプルな方法ー結果的に合理的なーを模索してきたのが、「東洋的」だと感じることも少なくありません(もちろん逆の場面もずいぶん多いとは思うのですが、少なくとも画一的なものではないと感じます)
 そんなことからも「自分でも、まっさらから考えてみる」ことの大事さを感じたりします。


「身体と言葉とは同じではないけれども、平等であって、異なるのではない」
(弘法大師 空海『大日経開題』現代語訳)

「身語不同なれども平等にして異ならず」
(漢文書き下し文)


 最近、「おっ」と腕組みをして考えてしまった、弘法大師の言葉です。こんな言葉も学びながら「まっさらから自分で考える」ことをしなければ、出てこない言葉のように思います。
 宗教や仏教には、教条的な教えから示唆を受けることだけではなくて、「おーい、世間に流されすぎず、自分でも考えるんだよー」という、「揺り戻し」の力を与えてくれるようなものでも、あるのかもしれませんね。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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