となりの坊さん。

第27回 演仏堂(えんぶつどう)を建立しました(前編)

2011.11.09更新

 「坊さん」の〝仕事〟といえば、法事や葬式、仏教の勉強、法話、境内の掃除、などを思い浮かべる人も多いと思います。もちろん、それらも大事な仕事なのですが、結構、事務的な仕事もあります。そういう仕事のなかで、母親に代理でお金の振り込みに行ってもらうことがありました。そういった場合、お寺に銀行から電話がかかってきて「住職」の本人確認をされることがあります。今回は、生年月日や氏名をお答えした後に、「すいません。組織(お寺)の設立年を教えていただけますか?」と聞かれました。そこで、うーんと、考えて「えーっと、弘仁年間(西暦810年〜824年)と言われています」と答えました。

おそらく、会社などだと「昭和**年です」とか「平成**年です」と答えられることがほとんどなのか、しばらく沈黙の時間が流れた後、「わ、わかりました」と変な雰囲気で電話が終わりました。ちょうど妻と一緒にいたので、「なんの電話?」と聞かれ、「いや、銀行に設立年を聞かれてね、それで、弘仁年間と」「ははは、弘仁年間!」と笑いあいました。その時は、ただ可笑しくて笑っていたのですが、千年の時を越えて、ある「組織」「チーム」を預かっていることに、ずしんとした実感を感じます。

 以前、こちらでも紹介した栄福寺の建築家白川在とのコラボレーション・プロジェクトがいくつか現実化してきました。同じ一本のクスノキを材料に制作した「高くもなく低くもない」高さの「中道の机」。

第27回となりの坊さん。

第27回となりの坊さん。

© 白川在建築設計事務所

 ヒノキの大きな天板机を持ったちょっと美術館のミュージアムショップみたいだけど、地元の久万ヒノキを中心に木をふんだんに使った四国霊場の納経所。

第27回となりの坊さん。

第27回となりの坊さん。

 そして、様々な角度の窓がいくつも開いた、演仏堂(えんぶつどう)という新しいお寺の建物。

 こちらは、鉄筋コンクリートの構造ですが、内部は四国の土佐漆喰を内装材に用いて、外装材は土のような風合いを持った現代の左官材に、設計者とそのスタッフ、僕を含めたお寺のメンバー、石屋さんが地元今治の「大島石」をハンマーで細かく砕いて混ぜ込み、強靱な素材かつ自然な風合いをもった仕上がりを目指しました。

 演仏堂のプランは、いくつも提案してくれた設計案(ちなみに決定プラン以外はすべて木造でした)のなかで、様々な角度の窓にうまく言葉にできない「物語性」を感じ、僕が選びました。

 考えてみると「仏教」という存在も、「こころ」や「身体」に様々な角度から、光をあて、新しい交通を生み「本当のようなもの」(時にそれを〝真実〟と呼ぶのでしょうか)を、手探りのなかで触ったり、感じようとした「試み」のようなものでもあるのかな、と思ったりしました。

 ちなみにこの窓の角度は、まったくランダムに開いているわけではなく、夏場には暑い西日をできるだけ避けるように、冬には暖かい光が室内に入り込むように、精密に設計されています。

 演仏堂を撮影しにきたカメラマンの方は、
「僕はこの建物、とてもいいと思う。人の繊細な部分に触れるのが〝宗教〟だとしたら、これも宗教じゃないかな」
 と声をかけてくれましたが、あえて乱暴にひと言でこの建物を形容したとしたら、いわゆる「現代建築」の建物だと言えると思います。なぜ、四国霊場のお寺という〝なつかしい〟場所にこの建物を、しかも古い日本の建物、存在も大好きな僕がつくったのか、考えてみると、いくつかのシンプルな要素があります。

 まずは、「仏教は、現代に僕たちが生きるために大切なメッセージを持っている。でも、現状で、このままで、お寺やお坊さんがいいかと問われると、おそらくそんなはずがない」ということを(もちろん自戒を込めて)、形でも表現するべきだと思ったこと。保持することと、新しく考え、実現していくことを両方、考えないといけないと思いました。

 そして、もうひとつは、僕も心から敬愛する宮大工の技術、美しさは、恐らくこれからも簡単には廃れることはないと思いました。つまり、その技術は多くのお寺や、僧侶、それを囲む人たちによって大切に守られてつくられていくと思います。しかし、今、自分や栄福寺が様々な出会いによって立っている場所、「仏教と今を生きる人たちをポップにクリエイティブに結びつける」という地点は、ある意味でとても小さな偶然をいくつも結びつけることで、不思議にも立っている場所だと思ったのです。その時、「自分の役割は、こっちだ。そして、いま、これをできる人は極めて少ないだろう。ストレートで時に鮮烈な非難を受けたとしても」と心から感じることができました。

 「演仏堂って、どんな性格の建物ですか?」
 と聞かれることも多くなってきました。じつはというと、大きなことを言ったわりには、特に目新しい性格の場所をつくったわけではないのです。むしろ「外観」から、「あっ、仏教が今までとは雰囲気の違う何かを伝えようとしているんだね」ということを、感じてもらうことが一番大きなことなのかもしれません。

 内部の性格として、僕がこの建物につくった場所は(僕と家族が生活をさせていただく場所以外に)いわば「オフィス」「アトリエ」「寺務所」のような場所でした。自分たちの仕事、役割をざっと見渡した時に、なにか生活と仕事、役割が混然とし過ぎていて「ぼやっ」としていると感じました。だから、「ここでは、お寺のスタッフが仏教を学び、伝えるための〝はたらく場所〟です」というワーク・エリアが必要だと思ったのです。

 いわば、栄福寺に「演仏堂」を創業したような気分でもあります。弘仁年間に始まったものもあるけれど、この平成23年に小さく始まることもある。今、まだ家具のほとんど入っていない演仏堂のなかにこしらえてもらった、四畳ほどの僕の小さな書斎でこの文章を書きながら、なんだか、自分のなかでも「演仏堂」がおぼろけながら、曖昧な輪郭を持ち始めたように感じます。

 演仏堂の外観は、今まで見たことがないような意匠を持つ建物ですが、これから僕が僧侶として、住職として取り組みたいことは、ある意味で「あたりまえの、普通の」ことなのかもしれないと思ったことが、最近ありました。それは小さな海辺の街を訪れた時に、食堂に入ると地元の食材で、魚料理やおから、大根のおひたし、豆の煮物、ひじきなどがたくさん並んでいて、セルフサービスでたっぷりとって、ご飯に鯛の切り身が入った味噌汁がついて、ひとり500円もしませんでした。

 僕の味の好みからいえば、少し塩が効き過ぎてはいましたが、「ああ、こんなところが近所にもあるといいね」と話しました。「でも、もしかしたらすこし昔までは、こんな食堂が当たり前にあったのかもしれない」そんなことも話しました。そして、その時「当たり前のお寺やお坊さんに、なれたらいいかもしれない。もっとあったらいいかもしれない」と思いました。

 お寺を訪れると、感じる心は人それぞれだけど、なんとなく落ち着いたり繊細な気分になって気が晴れる。そして時には、仏教の教えにアクセスできる。そんな〝普通〟のお寺。「坊さん」もそういった〝普通〟の性格を、できる限り備えようとする。でも、時々にじみ出る、その人だからできること。やりたいこと。そこからイメージするのは、「普通だけど、普通じゃない」「普通じゃないけど、どこか普通」そんな言葉です。宗教やお寺に限定しなくても、そんなどこか矛盾した雰囲気が、今、僕が思い浮かべる社会や個人の〝理想〟の状態なのかもしれません。

 「仏教の目的は?」と問う人がいたとしたら、色々な事柄が考えられると思うのですが、「正覚(しょうがく、正しい悟りのこと)、悟りでしょうね」というのもひとつのまっとうな答え方でしょう。ふと僕は、「そのままの状態」と「悟り」の中間的なゾーンがあるとしたら、そこには「笑顔」のようなものがあてはまるんじゃないかと最近、考えたりしました。まずはそんなものを目線に入れて、がんばってみようと思います。


(前半はここまでです。次回は、空海の言葉から身の回りの〝環境〟について考えます!)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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