となりの坊さん。

(後半の今回は、学校生活の思い出から、仏典や空海の言葉を交えてお話します)

第28回 演仏堂(えんぶつどう)を建立しました(後編)

2011.12.01更新

 「学校」での教育の不条理を声高に語ることはあっても、「学校で経験したあれは、今考えてみると結構、よかったなぁ」と話すことは、わりと少ないように感じます。かくいう僕も、台風が来ると「警報、出てください!」(学校が休みになるから)と手を合わせるタイプの子どもだったので、えらそうなことは言えないのですが、そのようななかでも「役に立ったなぁ」と思うことがあります。

 僕の学校での成績は、はっきりいって芳しくないものでしたが、ほぼ唯一といっていい得意科目が「国語(現代文)」でした。そのなかでも、テストの時に出題の文章を読むのが好きだったんです。つまり、どういうことかというと、当然、テストに出る課題文章は選ぶことができません。しかし、他のことをあまり考えず、いつもよりグッと集中して、小説なり論説文を読んでいると、どんな文章でも「たいがい面白い」んです、僕にとっては。これは、あまりうまく言えませんが、今までの人生の色々な場面で、無意識に役に立っていることです。

 また最近、心がけているのが、「とりあえず誤答でも答えておく」ということです。この時にも、漠然と学生時代のテストのことを思い浮かべることが多いです。生活の大小の場面で、何かを忘れてしまって、すぐに何かを見れば答えがわかる、なんだったかなぁ。ということがありますよね。

 そういう時、わからないままで「答え」を見ることが多かったのですが、まずは試験にたとえるならば空欄にせず、「誤答」でもいいから、一生懸命考えて「答えておく」そういう風にしようと思っているんです。これはもう少し抽象的な場面、「答えが何か」なんて誰から見ても、はっきりしない場面でもそうしたいと感じます。

 ある「問い」が発生したら、その都度、それに対して、いちいち答えておく。「チーム」で答える場合でも、「ひとりで答えるとしたら」どう答えたか、チームの意志がはっきりする前に、考えておく。それが誤答であったとしても、それはとても自分にとって、大事なことではないかと考えたんです。仏教においても、すぐれた師であればあるほど、教えを受けると経典を鵜呑みにするばかりでなく、それが自分もこころから納得していることなのか、繰り返しチェックしなさい、と伝えてくださることが頻繁にあります。

 しかし、今お話ししたのは、どちらかというと「自分の実際の経験も大事にして」という意味合いのお話しだと思うのですが、自分自身の手痛い失敗を省みても、関わる人に対して感じることを考えても、それと同じぐらい強く思うのは、「経験則のみで語ってはならない」という実感です。

 「経験」というのは、とても強いです。特に自分が、他の人があまり経験できない場所で働いていたり訪れたりしていると、まるで自分こそがすべてを知っているかのように語ってしまい、また経験をしていない他の人も反論をしにくい場面があります。しかし、今までの〝経験〟を振り返ってみると、「これは私のいた会社ではね、これで当たり前なの」だとか「僕のいた業界では、常識だよ。困ったなぁ。頼むよ」なんていう人の言うことを聞いて、「あっ、よくよく考えると、聞くんじゃなかった」と後から気づくことが、少なくないんです。


「ひとが何かを或るものに依拠して〝その他のものはつまらぬものである〟と見なすならば、それは実にこだわりである、と〈真理に達した人々〉は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない」
(『スッタニパータ』七九八)


 おそらく何度か紹介した言葉ではありますが、やはり含蓄のある言葉ではないでしょうか。「修行者は、見たこと、学んだこと、考えたことにこだわってはならない」。経験は時に、何事にも代え難い、大切な要素になり得るけれど、同時に、その「ごく一部」しか、経験していないことも事実のはずです。

 なので、時には「自分が経験者である」という過信が、足かせとなる場合もある、それは自分にも突きつけておきたいことです。今、私たちが経験していることは、「いつかみたものと似たもの」でありながらも、場所も細かい設定も時間も違う、「ちがうもの」「まったく新しいもの」であり続けるはずです。

 新聞の子供欄にインタビューを掲載していただく機会がありました。「子供欄にお坊さん」という取り合わせが面白かったのか、反響がけっこうあったのですが、心理的に負担を感じている子どもや、やり所のない感情に悶えている、若い人たちに僕が伝えたかったのは、「今、自分が囲まれている環境、人がすべてではない。受け手が変われば、また〝変えれば〟なにもかもが変わる場合もあるのだから、今いる環境がすべてと考えないで欲しい。チャンスはまだまだある」というようなことでした。そういった意味でも、人は「環境」に強く影響されるものだなぁと改めて考えました。


「そもそも環境は心に従って変わるものである。心が汚れていれば環境は悪くなる。心は環境につれて動いて行くものである。環境が静かであれば心は清らかとなる。心と環境が自然と合致して、万物の根源である道とそのはたらきである徳とが存在することになる」
(弘法大師空海『遍照発揮性霊集 巻第二』現代語訳)

「夫れ境は心に随(したが)いて変ず。心垢(けが)るれば則(すなわち)境濁る。心は境を逐(お)いて移る。境閑(しずか)なれば則ち心朗らかなり。心境冥会して、道徳玄存す」
(漢文、書き下し文)


 弘法大師もこのような言葉を残されています。空海にとって、環境とは自身の心がつくり出すものでありながら、その心も環境によって動いていく、という相互的で流動的な分かち難い存在であったようです。

 僕自身は、どちらかというと環境の影響を強く受ける性格で、その分、身の回りや関わる人には、注意しなければならない、といつも気に留めながらも、逆に言うといい影響も受けやすいので、便利に、有意義にこの性格を使うことも少なくありません。

 しかし視点を変えてみると、「自分自身」も誰かにとっては、〝環境のひとつ〟です。自分が、笑顔であったり、ワクワクしたり、静かで穏やかな気分でいることで(逆の状態のなんと多いこと! 反省しています)、それも環境となって、自分を含めた周辺の人や場所に影響を与える。そのようなことも、じっくりと味わいながら、観察してみたくもなりました。

 人から、いろいろ「いい感情」を今までプレゼントされてきたのだから、いつかは、これからは、自分もそんな「熱源」となって、誰かに何かをプレゼントしたい。そんな気分になりました。

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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