となりの坊さん。

第29回 「心に思うこと」と「途中の仏教」(前編)

2011.12.14更新

 栄福寺に新しい筆が何本かやって来ました。お寺にとって「筆」は必需品で、トウバを書いたり、位牌を書いたり、お遍路さんの「納経帳」に本尊名を書いたり、とにかくよく使います。子どもの頃から字が苦手だった僕も、書道の先生についてお稽古を何年もしています(最近、お休みしてしまっていますが・・・、来年は再開しないと)。でも今は市販の「墨汁」があるので、本当に楽になったようです。祖母が働き盛りの時代(何十年も前)には、「まず、墨をする」というのが、お寺での一日の仕事、すべてのスタートだったようです。

 新しい筆の包装を解くと、筆の「名前」が刻み込まれていました。その名前は「微妙」。そう「微妙」という言葉は元々、「美しさや味わいが何ともいえずすぐれているさま」ということで、「仏法とそれを悟る智慧の深遠ですぐれたさま」という意味もあるのです。

 しかし今、普通に使うとしたら、「おいしい?」「・・・微妙」という感じで、まさにビミョーな、どっちともいえない、少なからずネガティブな意味もあるように使うことが多いですので、筆にでんと「微妙」と書かれていると、「この筆、ちょっと微妙なんだけどー」というギャルの方々の苦情が聞こえてきそうで、家族と「うけるー」と笑いあいました。

 お坊さんと「言葉」は結構興味深いことが多く、お坊さんの隠語で「般若湯」(はんにゃとう)と言えば「お酒」というのは有名な話ですが、先日ちょっと調べ物をしていたら、「分別」(ふんべつ)という言葉もなかなか変遷のある言葉で、「分別がある人」と言えば今ではいい言葉として使う人が多いですが、もともと仏教語の「分別智」は、事物に対する一面的な智でしかなく、「無分別智」が主客の対立をこえた〝真理を見る智慧〟なんです。ここまでは、結構一般的にも知られている話だと思うのですが(「分別」が必ずしもいい意味の言葉でないことは)、この「分別」は、僧侶の隠語で「鰹節」(かつおぶし)の意味もあるんですね。これは知りませんでした。一体、どういうシチュエーションで使っていたのでしょうか。

 例えば汁の「だし」にうまみ成分がもっと欲しかった僧侶が、どうしても鰹節を使いたかったけれど「生きもの」なので、僧侶の食事に使うことができなかった。でも仲間と相談の上、「ここはひとつ、使おうじゃないか」という話になった。「でも、おまえ、鰹節っておおっぴらに言えないよね」「そうよなぁ、じゃあ合い言葉は〝分別〟でいこう。おまえ、そこの分別とって」「よしきた。〝分別〟な。あいよ」(と、すばやく鰹節をパス)というシーンが鮮明に浮かびましたが、全然、違うかもしれません。想像なので間違っていたらごめんなさい。ちなみに僕たちは修行中にマヨネーズのことを「マヨ」と呼んでいましたが、これは隠語ではなく、ただの「短縮形」ですね。

 住職になって十年たち、ここにきてお寺に必要な機能を持つためにいくつかの建物をつくる事業が続いていますが、今動いているのは、お遍路さんのための「公衆トイレ」です。この場所は、境内に隣接した農地を地目変更してつくろうと長年、思っていたのですが、何度も市役所に足を運び、何人かの司法書士さんに依頼もしたのですが、法規的なことがあってそれがかなわず、結局境内地のどこかにつくる必要がありました。
 
 年間何万人もの巡拝のお遍路さんが全国から来られるのに、(せまい)境内に隣接した広い農地(一部しか耕作していない)があって、そこにトイレをつくれないとは、法律ももう少し柔軟な運用を可能な形に、僕たちの手で微調整していかなければならないと思いました(もちろん、この件に限らず)。おそらくこの手の話が、いっぱいあると想像します。現場の市役所の方々も、色々と苦慮してくださったのですが、こういことを現実的に「動かす」のってどうすればいいのでしょうね・・・。

 でも、そこで諦めるわけにはいかないので、諦めないことに関しては、一種独特な執念を誇る建築家、白川在さんに今回も応援(設計)を頼みました。そこで出てきたのは「できるだけ境内の木を切らない」ようにするために、トイレを三つの棟に分けて設置するという案です。建物自体は、ヒノキの集成材でできているのですが、今回は屋根も「木」で葺くという工法(板葺き)になりました。

「木でできた屋根なんて初めてみるので、楽しみにしています」

 と現場の大工さんに声をかけると、「住職、僕らもはじめてです!」ということなので、これはますます楽しみです。材質は米杉で、北米などではよく用いられる方法らしく、断熱効果も高いみたいです。国(日本)の重要文化財、立山連峰の室堂(むろどう)も板葺きです。寒い山のお寺にぴったりのトイレになるといいな、とわくわくしています。

第29回となりの坊さん

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 自分の今まで生きてきた人生のなかで、何度か思った時期があるように記憶しているのですが、「心のなかの思い」というのは、外から他人には見えないけれど、だからといって「ほったからし」にし過ぎるとあまりよくないな、と最近また何度か考えることがありました。

 もちろん「自分の心の中」の〝自由さ〟は、それだけで、とても大切なことで、例えば性的な妄想や、他人を殴りつけたいような気持ちを、「心の中だけで」終わらせることは、とても大事なことだと思います。しかし、だからといって「心の中だけのことだから」といって、あまり悪意に満ちたり、暴力的すぎることや、小賢しさが過ぎることを考えていると、それが内面や外面にも影響を与えるのだろうな、と感じたのです。

 仏道の基本中の基本になる、苦から逃れるための八つの「道」に八正道(はっしょうどう)があります。それは一、正見(しょうけん、正しい見解)二、正思(しょうし、正しい思惟)、三、正語(しょうご、正しい言葉)、四、正業(しょうごう、正しい行為)、五、正命(正しい生活)、六、正精進(しょうしょうじん、正しい努力)、七、正念(しょうねん、正しい思念)、八、正定(しょうじょう、正しい精神統一)であり釈尊が最初の説法(初転法輪、しょてんぽうりん)で説いたと伝えられていますが、そのなかでも「二、正思」と「七、正念」にあたることでもあるのかな、と感じました。

「正しい、正しいってそりゃ、なかなか人間には難しいぜ」

 というのはその通りなのですが、「そのまま」で「モロ出し」だと、なかなかあなたも周囲も「しんどいよ」ということは、あるのかもしれないなと思い、心に思うこと、思念することにも今までよりも少し、注意をして生活をしてみようと思っています。

「心の中のこと」もあなたをあなたとする大切な〝部分〟であり、時に〝中心〟でもある。そんなことを考えました。「禁止」するのはなく「注意深くある」それが、大切なように思うのです。


(前半はここまでです。次回は「正直さ」と、これからミッセイさんの考えたい仏教のことに続きます!)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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