となりの坊さん。

前回は、「思うこと」の大切さについて考えました。今回はミッセイさんが考えたい仏教について。「途中の仏教」ってなんですか?)

第30回 「心に思うこと」と「途中の仏教」(後編)

2011.12.19更新

 色々な理由があって、今まで講演をお断りしなければいけないことが、ほとんどだったのですが、今治市図書館が2年越しで講演を依頼してくださったので、久しぶりにお話しをさせて頂きました。

 今回は妻も「私も行ってみたい」ということで、話を聞きに来てくれたのですが、人前で話す時に僕が一番やりづらいのは、「お坊さんの前」です。そして、次に話しづらいのは「家族の前」なので、妻の場合、尼僧なので「ダブルネーム」で「やりづらいなぁ」と思ったのですが、結局、妻の前で話してよかったなぁと思いました。

 それは、僕の場合話すことはやはり「心の中」の話が多くなります。例えば「怒り」の持つ「マイナスの側面」について仏教の言葉や思想を紹介しながら、話したりするのですが、家族は四六時中一緒にいるわけなので、僕がしょうもないことに怒ったりふてくれたりしているのを、よく知っているわけです。「やりづらい」のは、そんな部分でもあったのですが、「いやぁ、僕もよく怒るのですが、やっぱよくないと改めて反省しています・・・」なんて話をすすめると、その場所が笑いで柔らかくなったり、実践に即した、言ってみれば「臨床的」な雰囲気が流れていたような気がしました。「で、どうする?」というような。

 人前で話す時、自分が数少ない「好きなこと」「時々、ほめられること」でもある「文章を書く」ということについて、話そうとよく思うのですが結局、「正直に書くこと」しかその方法論のようなものが見つからないので、うまく話すことができません。

 でも寝る前に布団のなかに入って、お気に入りの作家の本を読む体勢をととのえ、「ぐふぐふ、至福至福」と考えながら、「なぜ、この本の持っている雰囲気にここまで惹かれるのか」とふと考えてみると、やはりある種の「正直さ」なのかな、と強く思いました。
 多くの人にとって仕事のなかや、生活のなかで「正直さ」を保ち続けることが、難しい場面も少なくはないと思います。でも、ある種の「正直さ」は自分が生きる上で、なにかに代え難いものがあり、それを充足する意味でも今、僕はこの本を楽しみにしているのかと、「正直さ」について再び考えたい気持ちを持ちました。

 そして僕自身も、僕がこれから取り組みたい「仏教」について、できる限り正直に考えはじめていました。日本の仏教は、僧侶が集団生活をしていなかったり、戒律が曖昧になっていたり、家族と暮らしていたり、正直なところ「弱点をあげようと思えばキリがない」存在かもしれません。でも僕は、「そんな僕(たち)だから」考えられることも、あるんじゃないかと思うことがあります。

 それはどんな形か、考える時いつもある言葉を思い出します。記憶なので細かい部分は曖昧なのですが、ある作家と臨床心理学者の対談のなかで話されていた内容でした。作家の方が、「最近の親は、〝うちの子〟しか見えていない気がして・・・」と話をふるとその心理学者の方が、「いえ、〝うちの子、がんばれ〟ある意味では、それでいいんです」と話されていたと記憶しています。僕はなぜか、繰り返しその言葉を思い出すんです。
 この部分だけで、すべてを理解してしまおうとすると間違うと思うのですが、それでも、ここには大事なトピックがあるように思います。

 人間が悟って、自他の区別を超越すると、自分の子も他人の子も、自分も他人も分け隔てのない世界がひろがっているでしょう。それは一種の理想郷だと思いますし、それを「実現無理なことだから、荒唐無稽な話だ」と僕は思いませんし、言いません。実際にそこに向かって真摯な修行されてきた方が今までもいたし、今でもいらっしゃるのですから。

 しかし、その「途中」の地点も同時にもあると感じるのです。修行の足りない今の僕(たち)は、どうしても、「うちの子がんばれ」と思ってします。「うちの子がんばれ」というのは、要するに「オレ、がんばれ」とほとんど同じような意味だと思います。
 でもそのようななかで、「うちの子がんばれ」だけど、「よその子もがんばれ」「あなたもがんばれ」とどこか「正直に」思えたならば、そこにも「今までにはなかった」「感じることのできなかった」よろこび、しあわせ、リラックスを持つんじゃないか、例えばそんなことを想像しました。

 それを連載の始めにお話ししたように、「途中の仏教」だと心の中で呼んでいます。最初から途中を目指すわけではなく、情けないけれど、恥ずかしながら、今のところ「途中です」。でも「一歩でも二歩でも、幸せやリラックスに近づきたいと思っているんです」そういう仏教を語れるのは、もしかしたら日本のお坊さんである、「僕」たちなのかもしれません。

***


 傍らに立って、その神はこのように言った、ー
「きみよ、あなたは激流をどのようにして渡ったのですか?」
「友よ。わたしは、立ち止まることなく、あがくことなしに、激流を渡りました」
「きみよ。では、あなたは、どのようにして、立ち止まることなく、あがくことなしに激流を渡ったのですか?」
「友よ。わたしは立ちどまる時に沈み、あがく時に溺れるのです。わたしは、このようにして立ち止まることなしに、あがくことなしに激流をわたったのです」

『サンユッタ・ニカーヤ』(第一節三)

***

 あまり自分に都合よく聞いてはならない、渾身の仏教の教えでしょう。繰り返し読みたい、声に出したい言葉です。しかし、僕はここからも、まずは呼吸を整えて、自分のできることをひとつ、ひとつ、やってみようよ、という声を聞いてしまいました。

 そして、今までこの「となりの坊さん」で書いてきたことも、きちんと頭から読み直し、自分が提案してきたことをもう一度考え、時には人に紹介し、なによりも自分自身がそういった「生き方」ができるかどうか、一歩でも二歩でも、「あなたもがんばれ。僕も笑顔を失わない程度にがんばるよー」と行動できるか、チャレンジしてみようと思っています。

第30回となりの坊さん。

(今年は紅葉が綺麗だったので、一枚、どうぞー。木も残したおかげでなんとかこの風景も保てそうです)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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