となりの坊さん。

第31回 おと! はじめまして(前編)

2012.01.11更新

 「それではメリークリスマス!(そういえば、お坊さんやお寺でクリスマスってあるんですか?)」

 〝坊さん〟である僕がクリスマス頃にもらうメールには、多くの人が最後にそう付け加えています。
「クリスマス? そんな他宗教の誕生祭に、チャラチャラした気分でいるはずはないでしょう。座禅ですよ、座禅。そして4月8日の花祭(ブッダの誕生法会、灌仏会のこと)を虎視眈々と待つ!」
 というほどエキサイトしているわけではありませんが、特になにかをするわけではありません(当たり前か)。しかし今年は「新婚」でもありますし、妻にはウールのひざかけをクリスマスプレゼントしました。「花祭」には、もっといいものをプレゼントしないといけませんね。

 クリスマスは、「ミトラ教の太陽神の新生を祝う〈冬至の祭〉をキリスト教が取り入れたもの」(広辞苑より)なんですね。知らなかった。よく「お祝いは、神道。死んだら仏教。年末はクリスマス。日本人の宗教観は、節操がない」と言われますが、宗教って日本に限らず「ぐるん、ぐるん、ぐるん」と遠心力をもって運動しているものなのかもしれません。

 ちなみに、となりの寺の体格のいい若いお坊さんは、「子供会」のクリスマス会に「サンタさん」として毎年、何件も駆り出されるそうです。剃髪したサンタクロースとは、なかなかしぶいですね。
 というわけで栄福寺から遠心力を込めて、今年もお届けします「となりの坊さん」。今年もよろしくお願い致します。ぐるんぐるんぐるーん。

 昨年の12月21日に、僕にとって初めての子ども(長女)が生まれました。出家した僧侶は本来、結婚しないものであったので(世界的にみるともちろん今でも)、あまりこのような公の場所で、胸を張れることでもないんじゃない? というご意見もあるかと思うのですが、ここはひとつ産まれてきた子どものためにも、胸をはります。


「独りでいる修行をまもっているときには一般に賢者と認められていた人でも、もしも淫欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む」
(『スッタニパータ』八二〇)



 開き直ってばかりでもいけませんが、今、僕(たち)が語れる仏教は「愚者のための仏教」なのかもしれません。自身が「愚者」であると感じるからこそ、生活のなかで、ささやかな「智慧」を泣き笑いながら求めていこうと思っています。

 予定日の前日にお葬式を拝むことになり、妻は実家のある神戸での出産なので、「立ち会い」は難しいと思ったのですが、なんとか間に合い、命が誕生する現場にいることができました。
 陣痛が始まったとの連絡で、急いで駅まで車を走らせながら、産まれてくる子どもに僕はなんと声をかけるだろう、と考えていました。ふとついて出た言葉は、「欠点もずいぶん多いらしいこの世界のことを、僕は好きです。ようこそ。いらっしゃいませ」でした。

 子どもに名前をつけることになると、自分が「世界」や「人」をどのように見ているか、ずいぶん気づくような気持ちになります。まず初めは、「誰かに名前をつけてもらおう」と思いました。子どもに対して、一番気をつけなければならないことは、「子どもを自分の所有物のようにふるまう」ことではないかと思ったからです。昔の人が、お祖父さんや住職さんにつけてもらうことが多かったのも、含蓄のあることだと感じました。
 しかし、これは奥さんの反対にあい断念。「じゃあ、私がつけるで」と関西弁ですごまれたので、「やややや、僕がつける」と名前を考え始めました。彼女からの厳命は「平仮名」か「カタカナ」であることです。

「なんで?」
「昔っぽい名前がいいねん。クマとか。あと、カマドとかヨネとか・・・」
「なんでカマドなの?」
「食いっぱぐれないように!」

 やはり自分が決めた方がよさそうだと、深く心に決めました(というのは冗談で「カマド」も結構かわいいいですね)。
 「こずえ(梢)」という名前も思いつきました。梢は「木の枝の先」という意味ですよね。「私が生きている」ということは、「木の枝の先っぽ」という、とてつもなく「小さなこと」でもあります。しかし同時に一番根本にも、太い幹にも繫がった「大きなこと」でもある。その最先端にあなたは立っている。と伝えたくなりました。

 最終的に決めたのは、「おと(音)」という名前でした。あなたも、この世界にあるすべてのことも、手と手を合わせて鳴らした音が、永遠に響くことがないよう、流れていくものだけど、だからこそ、自分にも誰かにも「いい音」を聞かせて欲しい、響かせて欲しい。そういう思いを込めました。
 音、といえば観音様(観世音菩薩)のことも思い出します。


「若し無量百千万億の衆生ありて諸々の苦悩を受け、この観世音菩薩を聞きて一心に名を称うれば、観世音菩薩は即時に〝其音声を観て〟皆解脱を得しむ」
『妙法蓮華経』(観世音菩薩普門品)



 〝音声を観て〟この詩情あふれる表現、場面から、「響かせる」ということ以外にも、「音に耳を澄ませる」ということを想起させられます。そういう人であってほしいし、そういう人に僕もなりたいです。

 白川静さんの著作によると「音」は「言」に「一」を加えた字で、「言」は「神に誓って祈る言葉」であり「音」は、その祈りに神が反応し、夜中の静かな時に立てるかすかな音。「音」とは、神が音を立てることであり、その訪れ、お告げである、とのことでした。(『常用字解』平凡社、参照)この意味は名前をつけた後に知りましたが、「祈りに反応する音」があるか信じるかと問われたら、僕はそれがあると信じるし、それが「神様」なのかと考えたりしました。

 ふー。本当に名前というのは「呪術的」な意味さえあるとも言われますが、そこまで言わなくても人生観や生命観が出ますね。「名前をつける」というのは、本当に素敵な経験でした。人にこうあって欲しい、ということは、そのまま「自分もこうありたいな」ということであり、また読者の皆さんへのささやかなご提案でもあると感じます。

 「これからは三人で力を合わせてがんばろう」と神戸の妻にメールをすると、「これからはズッコケ三人組で生活を楽しもう!」と返信が来ました。
「そういうこと、なんだよな」
と僕はしばらくそのメールを眺めていました。

 愚者でありズッコケ。そんな地点から「今を生きる」。前を向いて、後ろを振り返って、「おと」に耳を澄ませ、ゆっくりでも歩こうと思います。


(前半はここまでです。次回は修業時代の思い出から「組み合わせ」について、考えます!)

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白川密成しらかわ・みっせい

1977年愛媛県生まれ。栄福寺住職。高校を卒業後、高野山大学密教学科に入学。大学卒業後、地元の書店で社員として働くが、2001年、先代住職の遷化をうけて、24歳で四国八十八ヶ所霊場第五十七番札所、栄福寺の住職に就任する。同年、糸井重里編集長の人気サイト『ほぼ日刊イトイ新聞』において、「坊さん——57番札所24歳住職7転8起の日々——」の連載を開始し2008年まで231回の文章を寄稿。著書に『ボクは坊さん。』(ミシマ社)がある。

栄福寺ウェブサイト 「山歌う」

ボクは坊さん。

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