隣町探偵団

第1回 戦前昭和への旅のはじめ(前)

2013.04.09更新

第1回 小津安二郎『生まれてはみたけれど』完全解析の試み

      小津安二郎「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」1932年

 松竹蒲田が制作した映画『生まれてはみたけれど』は、小津安二郎の昭和七年の作品である。小津にとっては、昭和二年の『懺悔の刃』から数えて23本目の作品であり、名匠小津の名声を決定づけた、無声映画時代の代表作といってよいだろう。

 原作は、ゼェームス槇、脚色伏見晃、撮影は茂原英朗で、撮影助手に後の小津組の主要なカメラを担当した厚田雄春が名を連ねている。
 この作品について語るためには、昭和七年という年についての基礎的な知識が必要になる。

 昭和七年、1932年という年は、五一五事件のあった年として記憶されているだろう。海軍将校らによる犬養毅首相暗殺事件である。昭和四年(1929年)のニューヨーク証券取引所における株の大暴落に端を発した世界恐慌は世界を混乱に陥れた。日本も例外ではなく、生糸輸出の落ち込み、深刻なデフレ、失業の増加、相次ぐ企業倒産など社会不安が日本全体を覆った。一方、満蒙に政治的な覇権を強めていた日本軍は、昭和六年柳条湖事件に端を発して満州全域を占領する挙に出、中華民国と武力衝突する。まさに、政治的にも経済的にも不安定な時代であった。盧溝橋事件のあった昭和十二年、日本は日独伊防共協定に調印。政治的にも経済的にもバランスを失した日本国内に、戦争の影が少しずつその色を濃くしてきた頃である。しかし、満州事変から昭和十二年(1937年)の盧溝橋事件までの六年間のなかには、不思議な平安が兆すのである。

 この作品には戦争の影はほとんどうかがえないのは、まさにこのつかの間の平安の空気によるのだろう。わずかに、主人公の兄弟が通う学校の教室の壁に「爆弾三勇士」という揮毫が掲げられているのみである。爆弾三勇士とは、昭和七年(1932年)2月22日、国民革命軍19路軍が上海郊外(現在は上海市宝山区)の廟行鎮に築いた陣地の鉄条網に対して、破壊筒を持って敵陣に突入爆破(強行破壊)した江下武二、北川丞、作江伊之助3名の一等兵のことで、当時の大阪朝日新聞・東京朝日新聞が、爆死したかれらを称えてこの名称を与えたとされている。

 しかし、本作品においてはそれ以外にはまったくと言ってよいほど戦争の影を見ることはできない。むしろ、そこにあるのは現代のわたしたちの生活にも通じる、つつましい小市民の生活であり、都市化がすすみつつあった戦前蒲田周辺に暮らすサラリーマン家庭の牧歌的ともいえる一情景である。しかし、それは束の間のあやうい平安であった。

 映画の最後のほうで、「大きくなったら何になりたいか」と問う父親に、子どもは「中将」と答える。民主化の進展と、都市郊外の発展、近代化の背後に、微妙に戦争の影は迫ってきている。牧歌的な都市郊外の時間が静かに流れるこの作品に、どこか不思議な緊張感を与えていると見るのは、その後に続く大戦の悲劇を知っているからであろうか。

 映画の舞台になる地域の主要駅である蒲田駅には、当時旧国鉄路線(京浜東北線など)が止まる他、池上線と目蒲線という私鉄の始点にもなっていた。両線はこの時期の前後あたりから、乗降客の進展にあわせるようにめまぐるしく新駅を開業し、蒲田から蓮沼、池上、矢口渡、武蔵新田から田園調布あたりにかけて、新興の住宅が建設され、都心部や地方からの人口が流入していた。

 都市化の始まりである。
 うっかりすると、これが戦前の光景であることを忘れる。
 この都市化の始まりは、戦争の始まりでもあり、やがてこの一帯も空襲で大きく破壊されることになる。破壊は徹底的で、大田区は全戸の大半が焼けた。

 大田区の歴史については、詳細にわたって書かれた資料がインターネットにある。
地元の市民運動を推進している人々が作っているサイトで、大変参考になる。
 そのなかでも、多田鉄男氏による「「大田区の民衆史」には、終戦前後の蒲田周辺の状況が詳細に記されている。

 その記事によると、4月15日の大田区への空襲では、6万余戸が全焼し、23万人が焼け出され、蒲田区では全戸数の8割を失ってしまったとある。さらに帝都防空本部情報第170号によれば、蒲田区は全区の99%焼失となっている。(東京大空襲・戦災誌)

 第二次大戦の空襲による破壊は凄まじく町の光景を一変させた。今の同地区の建物や施設は戦後に建てられたものであり、この地域を歩き回っても戦前の様子を知る痕跡を探し出すことはほとんど不可能である。
 この「映画」の中にある戦前昭和は、もはや消失してしまっているのだ。
 そのことを知りつつこの作品を観れば、また特別の感慨がある。

 映画『生まれてはみたけれど』は、この新興の開発地域(都市郊外)に麻布からサラリーマン家族が引っ越してくるところから始まる。
 作家の川本三郎は、この頃の小津の作品が小市民映画と呼ばれたことに関して、「小市民映画とは、この昭和6年の満州事変と昭和12年の支那事変(日中戦争)との間の安岡章太郎のいう『平和な安穏な休憩期間』『一瞬の繁栄期』に作られた、豊かな都市郊外生活者の映画だったということが出来る」と書いている。 (『郊外の文学誌』の「小市民映画の生まれたところ 蒲田とその周辺」)

 「都市郊外生活者」という言葉は、いまはほとんど死語だろう。当時の蒲田駅周辺は、まさに都市の外れ、郊外と呼ぶにふさわしい場所であった。民主主義と戦争の影が溶着した時代を象徴するように、この地域は田園と都市が混在した場所であったともいえる。今から顧みればそれはあやういバランスであった。もし戦争がなければ増々発展して新興住宅街として栄えたはずである。しかし、東京大空襲でこの辺り一帯も大きな被害を受ける。戦後は町工場が立ち並ぶようになり、ものづくりと高度経済成長の象徴のような役割をになう。しかし、多くの工場のある町がそうであるように、この地域も社会の消費化の波に乗れぬまま、次第に近代化のスピードと齟齬をきたすことも多かった。

 都市論に関しては、本稿の趣旨ではないのでこれ以上は踏み込まないが、映画『生まれてはみたけれど』の世界の中に分け入って調査し、それを現代の同じ地域と引き比べるという作業は、必然的に都市論として推しだされてくることになるだろう。

 本稿は映画論というよりは、映画が切り取ったひとつの時代、戦前昭和というものがどのような時代であったのかについて接近の試みであり、同時に戦前から現代までの都市の変貌についての考察という側面を持つことになるだろう。

 とはいえ、正面切ってそれらを論じることにはならないだろう。
 わたしは、映画『生まれてはみたけれど』の時代の空気に触れ、主人公たちが歩いた道筋を、たどり直すという小さな冒険からこの物語を始めたい。


*「第2回 戦前昭和への旅のはじめ(後)」は、明日更新いたします。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

バックナンバー