隣町探偵団

第2回 戦前昭和への旅のはじめ(後)

2013.04.10更新

 研究の本題に入る前に、わたしおよび共同研究者であるわたしの友人ふたりがどのような経緯でこの研究を始めたのか、その動機を記しておきたい。

 2012年の春、わたしは実家のあった池上線久が原から隣の駅である御嶽山駅に引っ越した。わたしは世田谷区に家族と住んでいたが、両親の介護のためにいっとき久が原駅近くの実家に「単身赴任」していたのである。両親を送ったあと、わたしは世田谷に戻らず、書斎を確保するという理由で、隣町の御嶽山に部屋を借りた。引っ越しを期に、わたしは、自分が生まれ育った町やその隣町について調べてみようかと思い立ったのだ。調べるとは言っても学術的な意味は何もなく、ただ自分の町と、その隣町のちょっとした見当を付けておきたいというだけの単純な動機で町を歩きはじめた。

 これよりすこし前に、わたしは自分が卒業した大田区久が原にある大森第七中学校の同級生とクラス会で再会して意気投合し、一緒に町歩きをしようということになった。
ひとりは、今や日本を代表する中小企業(むしろ大企業というべきか)に育った京浜精密工業の社長である駒場徹郎であり、もうひとりは中学校卒業以来絵画の世界にのめり込み四十年間弛むことなく絵を描き続けている画家の伊坂義夫である。

 わたしを含めた三人には、ひとつの共通点があった。
 それは、三人とも大田区の町工場の倅であるということである。
 そんなわけで、最初の町歩きは、町工場がいまも立ち並ぶ大田区東糀谷に決めたのである。わたしは事前にふたりにこの町で旋盤工として七十歳まで働いていた作家、小関智弘の「羽田浦地図」と「錆色の町」を資料として渡し、両作品から脚本化されてNHKで放送された「羽田浦地図」のDVDを見るように指示していた。

 わたしたち三人はよほど気が合ったのか、それ以後も毎週のように時間をやり繰りしては出会い、近所の町を「探偵」して歩いた。
そんな折、偶然に観た小津安二郎の『生まれてはみたけれど』に中に、わたしたちが生まれ育った町である大田区の八十年前の姿が映し出されており、わたしたちが毎日見て、その音を聞いていた「池上線」の姿があった。

 この池上線が、後に大きな問題となってわたしたちを悩ませることになるのだが、地元の町歩きをしていたわたしたちにとってこの映画が発散する空気は特別のものがあった。
わたしは、さっそく二人に声をかけて、御嶽山の書斎でこの作品の鑑賞会を行うことにしたのである。

 『生まれてはみたけれど』は、モノクロスタンダードで91分と長い映画だが、ストーリー展開が巧みで飽きさせない。わたしたちはかつての自分たちの町を懐かしみ、堪能した。
 映画の中では、これでもかというように電車が走るシーンが映し出されていた。
映画を観終わったときに、駒場が言ったのか、伊坂が言ったのか、どちらからともなく、あれは池上線ではなくて、目蒲線じゃないのかと呟いた。

 池上線と目蒲線。
 当時、この二つの路線を走る単行車を、車体をみて判断することは難しい。
 わたしたちも毎日このどちらかの路線を利用して、久が原、千鳥町、鵜木、下丸子といった駅から目黒や蒲田へ出かけていたが、車体がどうだったかについて大きな関心を払ったことはない。ただわたしたちが子どもだった昭和三十年代はどちらもこげ茶色の三両連結だったというおぼろげな記憶があるだけである。

 いまは、目蒲線というものはなく、蒲田から出ているのは途中の田園調布駅までを繋ぐ多摩川線。そこから先は田園調布と目黒を繋ぐ目黒線に乗り換えて目黒に出る。現代の多摩川線、池上線は併用されているものもあり、今も車体だけでは判断がつかない。
 映画『生まれてはみたけれど』にたびたび登場する電車は、果たして池上線なのか目蒲線なのか。
 これが、旅の始まりであった。
 手はじめに、インターネットで調べてみることにした。

 ウィキペディアには、エピソードとして次の記述があった。
「撮影に出てくる電車の路線は池上線であり、電車が通るころあいを見計らってカメラを回したという。」
 これには註が付いていて、どうやらその出典はこの映画の撮影助手だった厚田雄春に蓮實重彦がインタビューした『小津安二郎物語』 であるようだった。

 さっそく、元本を入手し調べてみると、そこには厚田雄春の次の発言があった。

 「ええ。あれは池上線じゃないですかな。池上線が蒲田と池上の間に開通した。本門寺様のために開通したわけです。それで車体が新しい。池上電鉄としては宣伝はしてもらいたい。それで蒲田撮影所に話があって、そんな関係でロケをしたんじゃないかと思います。」

 この話は、広範に流布されていて、これが『生まれてはみたけれど』池上線説の根拠になっている場合が多い。

 しかし、よく読めばすぐにわかるのだが、これは別の作品についての話である。
 この発言の前に『カボチャ』という昭和三年の話を蓮實が振っている。だから、『カボチャ』についての発言なのである。

 「車体が新しい」と述べているが、『生まれてはみたけれど』の中を走る単行車は、随分使い古されているようにも見える。
電車が頻繁に映し出されている映画ということで、この発言が、電車が頻繁に現れる『生まれてはみたけれど』に結び付けられて語られるのは、ありそうなことである。

 しかし、池上電鉄が開業したのは、『生まれてはみたけれど』の昭和七年よりはずっと古く1917年。ロシア革命の年(大正6年)である。
 蒲田池上間の開業は1922年(大正11年)、蒲田五反田間開通は1928年(昭和3年)、そして池上電鉄が目蒲電鉄に買収されたのが1934年(昭和9年)。

 この事実から、昭和3年制作の『カボチャ』は、池上蒲田開通ではなく、池上線の全線開通(池上五反田)のときの作品であることがわかる。
 八十年前の出来事なので、誰でも記憶に様々なバイアスがかかる。
 それでも、映画『カボチャ』に池上線が走っていることは確からしい。
 (残念なが『カボチャ』は観ていない。フィルムセンターに残っているだろうか)

 元本を読み進めると、数ページ後に、今度は明確に『生まれてはみたけれど』について訊かれた厚田は、「ああ、あれも池上線です」と答えている。
 しかし、八十年前のことである。『カボチャ』のことがあるので、記憶が混乱することは考慮しなければならない。

 八十年前の四年間などは、同じひとつの記憶として固まっている可能性が高いようにも思う。(わたしの場合がそうである)。
 実際に現場に行ってみると、すぐにわかるが池上線と目蒲線はすぐ隣を並行に走っており、辺りを歩いていて踏切を渡るときなどは、いったいどちらなのか、地元民であるわたしたちでも混乱するほどである。

 ましてや、池上線か、目蒲線かはこの映画にとって重要なことではなく、電車が走るシーンが必要だったとすれば、それはどちらでもよかったはずであり、カメラ助手がロケで現地に就いたときに、それが池上線か目蒲線かの確認をしていたかどうか。もし、確認していても、八十年後にそれを覚えているかどうかは疑わしい。

 ネットの中をしらべてみると、案の定、池上線説に対しての異論があった。異論は、映画に映し出された車輛が何であり、当時それらの車輛が目蒲線、池上線のどちらを走っていたかまで断定してあった。
 はたして、どちらが正しいのか。この時点でわたしたちが判断するには、情報が少なすぎるし、経験も役には立たない。

 よほどの鉄道おたくでない限り、映画の中の電車(単行車)が池上線か、目蒲線かは重要なことではない。しかし、わたしたちにとっては、それは重要なことであった。少なくとも、重要だと思わせる動機がわたしたちにはあったのである。

 それは、日本を代表するだけでなく、世界中でもその名を知られた名匠小津安二郎の戦前のキネマ旬報ベストワン作品であり、世界が認めた作品が、わたしたちの生まれた町で撮影されたという事実である。線路わきの道を見てわたしたちがそれを懐かしむとしても、もしその道が思っているのと違えば、わたしたちの旧懐の情はぼんやりとした根拠の薄いものにならざるを得ない。

 いや、それ以上に映画の中を走る単行車が池上線であるのか、目蒲線であるのかを探ることは、わたしたちの生まれる以前の町の様子を知るためには重要なことのように思われた。池上線か、目蒲線か、ということ以上に、それを探ることの先に、もっと重要なものがあると思えたのである。そのときは、それほど苦労せずとも、結論が出せるだろうと思っていた。

 わたしたちの前に、とんでもない冒険が待ち受けていることなど知る由もなかったのである。

*次回は、4月13日(土)に更新致します。

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平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

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