隣町探偵団

第3回 八十年の歳月が残したもの(前)

2013.04.13更新

 最初はちょっとした興味だったが、いざ実際に八十年前の場所に立とうとしてみると、そこには実に様々な困難と、驚きの発見の数々が待ち受けていた。
 八十年という歳月の破壊と創造の凄まじさは、その時間の中に分け入らなければ実感できないものなのかもしれない。

 わたしたちは、とりあえず当時の現地の地図を入手することから作業を開始した。
 最初に入手した地図は「大東京区分図 三十五区之内 蒲田区詳細図」(旧字は新字に書き換えてある:筆者註)というもの。
 地図の欄外に、「内務省・著作登録第三九一六号ノ一」とある。印刷は昭和十五年八月一日。(以後この地図を昭和15年地図と呼ぶことにする)
 映画の製作された昭和七年の地図が欲しかったが、詳細かつ正確な地図として入手できたのは、この段階では上記のものしかなかった。ネット上には昭和七年の地図が数種見つかったがどれも詳細が書き込まれておらず、信憑性に疑問が残った。
 上記の地図の印刷は、映画製作から八年後のものであるが、実際の制作はそれ以前と推定され、その間は空襲や地震といった大きな異変がなかったので、昭和七年の時点の様子をかなり正確に伝えているかと思われる。

第3回 旅の始まりと驚きの目蒲線物語(1)

蒲田区詳細図写真

 わたしたちは「昭和15年地図」を机上に広げながら、映画『生まれてはみたけれど』(以後「映画」と略す)を観て、おおよその推論を立てることにしたのである。
わたしたちが当初注目したのは以下のものである。

 道路
 川および水路
 鉄道
 踏切
 駅
 付近の小学校
 派出所
 その他の高い建物(鉄塔、煙突など)

 これらを地図上に追いながら、「映画」の背景に何か手がかりになるようなものが映り込んでいないかどうかを確かめる。
 八十年の歳月は、町の隅々に至るまでのおびただしい変更の歴史でもある。あまつさえ、この時間の帯には太平洋戦争の空襲による壊滅的な被害が挟み込まれている。昭和15年地図と、現在の地図の上に現れる差異以上に、現実の空間は大きな変化で歪んでいる。
 わたしたちは、なるべく変更を受けなかったものを起点にして、現在の地図と、過去の地図、そして私たち自身の幼年時代のかすかな記憶から「映画」に映し出された場面場面を現在の位置に特定してゆく作業を続けた。
 わたしは、何か特別なものとの出会いが予感されてすこし興奮していたと思う。

 作業が始まってから少しして、地図を眺めていた駒場が「あれ、おかしいな」と呟いた。
 何かと聞くと、目蒲線のルートが現在のものと違うという。
 それで、目を凝らして地図を眺めると確かに目蒲線のルートは現在のものとはかなり異なっていることがわかる。
 「そうだ、こんなところを走っていなかったぞ」と画家の伊坂も地図を見ながら念を押すように言った。

 現在の目蒲線(多摩川線)は蒲田から次の矢口渡(やぐちのわたし)駅のあたりまでは、池上線とほぼ平行に肩を並べるようにして走っている。その二つの軌道には間隔はほとんどなく、品川新橋あたりを走る山手線と京浜東北線のように接近しているのである。しかし、地図が示す目蒲線は、蒲田を出てすぐに、大きく100メートルほど南側に膨らんだ軌道をとっている。
 そうなると、当然駅の場所も違ってくる。
 調べてみると、目蒲線の蒲田と矢口渡の中間に、もうひとつ駅が存在していたことがわかった。道塚駅である。さらに調べると、この道塚駅は当初は本門寺道という名前の駅であった。「生まれてはみたけれど」の撮影は昭和6年から昭和7年と推定されるので、その頃はまだ道塚駅ではなく本門寺道駅であり、その名の通り、本門寺への参拝客のための駅であった。

 では、本門寺に近い、池上線の池上駅はまだ開業していなかったということか。
 そんなことはない。池上駅の開業は大正11年(1922年)、池上電気鉄道が、蒲田・池上間に開通したときに開業している。
 一方、目蒲線の本門寺道駅は、目蒲線が現在の沼部駅と蒲田間に開通した大正14年の開業である。そして、本門寺道駅は、昭和11年(1936年)に道塚駅に改称している。
 つまり、池上線の方が先に開通し、あとを追うようにして目蒲線が開通したということである。いったいなぜ、目蒲線は池上駅がすでに存在しているのに、本門寺道駅をつくったのか。そこには、目蒲線と池上線という二つの私鉄同士の沿線開発の主導権争いがあったことがうかがわれる。
 鉄道会社とは、いったい何を目的とし、どのような形で収益を上げていこうとする会社なのだろうか。

 十年ほど前、米国シリコンバレーで仕事をしていたとき、その中心にスタンフォード大学があった。大学の正式名称でもあるリーランド・スタンフォードとは大陸横断鉄道のひとつであるセントラル・パシフィック鉄道の創立者の名前であり、その鉄道王が夭折した息子の名前を残すためにその地に大学をつくったと聞いて驚愕した覚えがある。

 産業国家の発展段階における、鉄道会社というものの権勢を思わせる逸話であり、おそらくは日本においても似たような事情があったのではないだろうか。
 目蒲電鉄と池上電鉄は現在の東京城南地区の主導権をめぐって、次々に路線申請をしている。それは、単にどちらがこの地域の乗降客を集めるかのシェア争いだけではないだろう。いわば、その沿線に広がる面の開発もまた視野に入っていたはずであり、そこには大きな利権が存在していたといえるだろう。

 この鉄道発展史は大変に興味深いが、それを追うことはわたしたちの今回の目的ではないので、これ以上は立ち入らないことにする。
 最終的に、目蒲電鉄はこのビジネス競争に勝ち、昭和9年(1934年)に池上線を買収するということが確認できれば、わたしたちのひとまずの目的は達成する。ii
 ここで得た情報から、わたしたちは「映画」解析のために、必要な部分を次のように整理した。

 ●「映画」撮影時には、目蒲線は今と異なるルートを走っていた
 ● 本門寺道(まだ道塚ではない)が存在していた
 ●「映画」撮影時には池上線と目蒲線は別々の会社が運営していた

 ただし、ここでひとつ未確認の情報があった。目蒲線の軌道は確かに現在のそれとは大きく異なっているが、池上線の軌道は当時も今も同じなのかどうかということである。目蒲線がこれほどの軌道修正をしているならば、池上線も軌道を変えていたとしてもおかしくはない。この報告を書いている現在の時点では、わたしたちは、いまだにその詳細をつかんではいない。ただ、伝聞情報として、池上線の蒲田・池上間の軌道には変更があったかもしれないという伝聞情報があっただけである。

 問題は、わたしたちが現在手にしている昭和15年地図と、「映画」撮影時の昭和7年地図との間に、池上線の路線変更があったかどうかである。(昭和7年地図は、現在入手問い合わせ中なので、本稿のどこかでそれを参照することができるかもしれない)

 ここで、昭和15年当時の蒲田・池上間の地図と、現在のそれとを比較のために添付しておこう。

第3回 旅の始まりと驚きの目蒲線物語(1)

昭和15年当時の蒲田・池上・矢口渡周辺図

第3回 旅の始まりと驚きの目蒲線物語(1)

現在の同上周辺図


 これまで述べてきたように、目蒲線の路線が大きく南側に膨らんでいるのが一目瞭然である。


*次回は、4月16日(火)に更新予定です。

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平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

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