隣町探偵団

第10回 踏切までの線路沿いの道(後)

2013.05.17更新

 わたしは、駒場は何を発見したのだろうと思いながら、伊坂とふたりで現地へ向かった。
 「踏切2」はすぐに見つかった。
 目蒲線のルートを切り裂くように、環状八号線が交差しているところにその踏切はあった。環状八号線は地下を通っており、その上を山手線が走っている。
 踏切に立った時、わたしはほとんどここが、父子が渡った踏切であることを直感した。同時に、自分が八十年前の「映画」の舞台に立っているような不思議な錯覚に陥ったのである。

 こういう直観は、馬鹿にはできない。
 とくに、戦前の場所を現在に特定しようなどという試みでは、「物証」はほとんど消え去ってしまっている。証言もあいまいなものにならざるを得ない。
 ある意味では直観だけが頼りなのである。
 問題となっていた踏切までの線路沿いの道は、わたしたちが考えていた現場に確かに存在していた。
 地図上で眺めていたのと、実際に現場に立つのでは随分感覚が違う。よく言われていることだが、真相究明の鍵は現場に落ちているものだと改めて知らされる思いであった。

第10回 踏切までの線路沿いの道(後)

父子が通った踏切までの線路際の道






第10回 踏切までの線路沿いの道(後)

逆方向からのショット(「映画」と同じように、電車は緩やかに弧を描きながら踏切に進入する)





 これで、父子が渡った踏切はほぼ確定できたとわたしは思った。
 かれらの家からこの踏切までの道のりはさほど複雑ではない。
 ここまでくれば、吉井家の位置はほぼビンポイントで確定できるだろう。
 何だか上手くいきすぎているという気持ちもあったが、わたしたちの推理に大きな間違いはなさそうだった。(後に、大きなしっぺ返しを食らうことになるとは、この時点では思いもよらなかったのである)。

 吉井家の位置がすぐに分かるだろうというのは、かれらの家を出たすぐ近くには、もう一つの踏切があったからである。吉井父子は、それぞれ学校と会社へ向かうために家の玄関を出て、「踏切1」に向かい、その手前を右折して線路際の道を「踏切2」へ向かって歩いていく。「映画」を見ている限り、最初は誰もがそう思うだろう。
 ところが、ここにも意外な落とし穴があった。
 その顛末は、後に詳しく説明するとして、とりあえず、吉井父子が家を出てから「踏切2」を渡り、それぞれ学校と会社へ向かうまでのスケッチした図を作ってみた。






第10回 踏切までの線路沿いの道(後)

吉井家から「踏切2」までの導線




 電車が入ってくる角度は、現在の実写でもほとんど同じである。
 ただ、電車が走り去る角度は、「映画」では右にカーブしているが、今の目蒲線の場合にはそのまま蒲田方面へ直進している。
 その理由は、昭和15年地図では目蒲線の軌道が「踏切2」から先で大きく右にカーブして、次の道塚駅に向かっていたからである。「映画」が撮影された昭和七年当時も同様である。ただし、道塚駅は、昭和七年の時点では本門寺道という名称であった。

 おもしろいことに、現在のこのあたりの地図を見ると、かつての目蒲線の軌道が推測できることである。
 これは実に興味深いのでよく下の図を見ていただきたい。






第10回 踏切までの線路沿いの道(後)

目蒲線の経路と現在の多摩川線の経路の関係




 地図上で東急多摩川線に沿って東下し、途中で線路を跨いで北上する線で示したのが、兄弟の学校までの予想経路である。
 東急多摩川線が環状八号線と交わるところから南にカーブする線が、旧目蒲線の経路である。 なぜ、それが予想できるのかというと、若宮八幡神社からくらしの友蒲田儀典センターあたりまでの家の建ち方が、そこだけ向きを変えて一列に並んでいるからである。(グレー表示なのでわかりにくいかもしれないが)この部分の拡大写真が下図を見るとその様子がよくわかる。






第10回 踏切までの線路沿いの道(後)

旧目蒲線軌道の跡




 現地の不動産屋に飛び込んで聞き込みをしてみると、地図の、「ハイムコヨシ」のあたりに確かに、かつて道塚駅が存在していたという情報が得られた。
 後にわたしたちは、まさに当時の本門寺道駅の真上に、位置しているそば屋に偶然立ち寄ることになる。そば屋は、戦前から本門寺道駅の東側で営業していたが、戦後、駅がなくなり、かつてのプラットホームがあったあたりに店を建て替えて、現在に至るまで営業を続けていた。このそば屋の主人からは、「原っぱ」にあった黒澤工場に関する驚くべき情報を聞かされることになるのだが、その話は「黒澤工場」に関する項目のところで触れることにしよう。

 また、このときの取材時に通りかかった主婦によれば、現在地元の小学校(矢口東小学校)では、旧目蒲線の経路探索研究がなされているそうである。
 わたしたちは、旧目蒲線の、今はない駅が、このような形で後世に伝えられていくのを聞いてなんだかほっとしたような気持ちになった。歴史は、忘れ去られてもどこかでもう一度発掘されるのを待ちながら生き続けているのである。
 さて、これで、父子が「踏切2」を渡った後で、目蒲線が右にカーブして去っていった謎が解けたことになる。目蒲線は、当時、今とは異なるルートを通っていたのである。

 ところで、「映画」のなかでは、吉井兄弟は「踏切2」を渡った後で、わずかに進行方向斜め左前方へ向かう道を直進している。図8に緑で示した経路図を見ればわかるが、いまでもその道はわずかに左前方へ向かっていることがわかる。
 踏切を超えた現場に立ってみると、そこがまさに吉井父子が立ち話をしていた場所であると実感できる。

 「映画」では踏切を渡り切った交差点のところに、橋があったが、今は何処を探しても橋柱すら残っていない。しかし、わたしたちはここでなんともうれしいものを発見する。その交差点のところには、何と旧六郷用水の水路を示した案内板が出ていたのだ。案内板の中に示された水路はまさにわたしたちの立っている場所を流れている。やはり、ここに六郷用水が流れており、踏切の先には橋があったのだ。
 ここまできて、わたしたちは「映画」の父子が、この「踏切2」を渡ったという仮説は、ほぼまちがいないと確信した。

 「踏切2」が確定できれば、吉井父子が家からこの踏切まで歩いてきた経路も見えてくる。
かれらは、家から出て線路の方向へ歩きだし、そのまま右折してこの「踏切2」まで歩いてきている。
 ただ、かれらが右折するときのシーンは「映画」のなかにはない。
 父子は、家の玄関を出てから「踏切1」に向かって歩んでいくが、「踏切1」の直前で、カメラが切り替わる。

 このシーンは、「映画」の中で、何度か出てくるが、毎回角を右折するシーンは、カメラの切り替えによって、吉井父子が右折したとほのめかしているだけである。
 わたしたちは、吉井家の位置は、「踏切1」で目蒲線とほぼ直角に交差している道から一軒か二軒東側の、目蒲線の南側道沿いにあるはずだという仮説を立てた。(図7はその仮説に基づいたスケッチである)
 しかし、ここでわたしたちは予想していなかった難しい問題に直面することになった。

*次回は5月24日(金)更新予定です。

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平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

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