隣町探偵団

第16回 ついに見つけたまぼろしの道

2013.06.29更新

 この間、わたしたちは何度も映画のシーンを見直し、それらしき場所を地図の中に探し求めた。そして、まぼろしの「A道」に関するひとつの重要な鍵を見つけ出したのである。

 まず、下の地図を見ていただきたい。

第16回 ついに見つけたまぼろしの道

(図版43. 送電線鉄塔のある場所)


 図は、現在の目蒲線(東急多摩川線)以南の蒲田西南地区の地図である。地図上に人型のマークが並んでいる。何を意味しているかというと、現在の送電線の鉄塔の位置を示すものだ。このあたりの送電線網は、安方線、千鳥線、下丸子線というもので、並んだ鉄塔は、六郷、矢口、東急新田の66kv変電所からの送電路を示すことになる。「A道」の在処を探していたわたしたちには、この地図はほとんど啓示のようなものであった。

 わたしたちは「A道」の向う側に見えていた鉄塔の場所を特定できるのではないかと、考えたのである。
 もし、吉井父子が玄関を出て、学校へ向かう道(A道)の映像のなかで、現在までその痕跡を残しているものがあるとすれば、あの鉄塔以外にはないだろうというのが、わたしたちの結論だった。
 八十年の歳月は、映像の中に映り込んでいるほとんどの証拠を消してしまっていた。

 鉄塔は最後の頼みの綱だった。
 そして、あの鉄塔は送電線の鉄塔だろうというあたりをつけていたのである。
 「しかし、八十年前のものが今でもそのまま残っているか」と、駒場がかれの会社の技術部長に尋ねると、「社長、送電線の位置というものは、そう簡単に変わらないんですよ」という答えが返ってきた。

 実際に東電に当時の電柱配置図のようなものがあるかどうかを問い合わせたが、答えはないだろうということであった。そもそも、蒲田六郷から武蔵新田まで伸びている送電線網は、東電の管轄ではなく、六郷に存在した矢口発電所の電力を供給するためのものであったという情をも入ってきた。しかし、これは間違いで、矢口発電所は、京浜東北線電化に備えて、多摩川の水を利用してこの地に作られたものであった。発電所の燃料には石炭が用いられ、その石炭の燃料を運び入れる側線は、今も現地にその跡を確認することができる。矢口発電所は関東大震災で被災し復旧されたが、その震災の三年後の 1926(大正 15)年には廃止された。

 昭和七年に送電線鉄塔があったとすれば、それはやはり東電の管轄のものなのだろう。しかし、昭和15年地図の凡例のなかには、送電線鉄塔はない。
 火の見櫓や風呂屋の煙突は当時の地図の凡例に出てくるメルクマール(目印)だが、送電線の塔は、あらかじめ凡例から除外されていた。
 その理由は定かではないが、内務省に登録しなければならない地図に、ライフラインである送電線鉄塔を記入することははばかられたのかもしれない。そこには、まさに戦争前夜の時代が反映されていると考えられないだろうか。

 矢口東小学校を特定するときに発見した、火の見櫓や、風呂屋の煙突は確かに地図の凡例にあった。しかし、送電線鉄塔は凡例にも地図の上にも出てはこないのである。
 「映画」には、「A道」の行く先の右手には確かに高い送電線鉄塔のようなものが映り込んでいる。
 目蒲線の南側から北側一帯には、送電線は存在していない。火の見櫓も存在していない。だとするならば、「映画」に映っていたのは、送電線鉄塔以外には思いつかない。
 はたして、線路を挟んで伸びていく道の先に、送電線鉄塔が映り込むような道が、地図上のどこかに存在するのだろうか。

 とりあえず、わたしたちは現地調査をすることにした。
 駒場は、すでに何度か現地を歩き、写真と地図上にあたりをつけていた。現地調査は、駒場の推理が妥当かどうかを確かめるためのものであった。
 すでに、述べてきたように、わたしたちは、吉井父子が家を出て、線路際の道を歩み、最初に踏切(「踏切2」)を渡るまでのシーンで、「踏切2」は特定している。

 ここからわたしたちは、フイルムを巻き戻して、吉井父子が家を出てから最初に右折するまでの家から踏切までの10メートルほどの道(「A道」)を探し出そうとしている。
 そして、その「A道」は「踏切2」の近くにあるだろうというあたりをつけた。
 さらに、「A道」の行方の先方には送電線鉄塔があることを画面で確認している。

 はたして、このような条件を満たす道が実際に存在するのだろうか。いや、「映画」の中では確かに存在していたのだ。
 しかし、それが確かに存在していたとして、八十年後の現在も確認できるようなかたちで残っているのだろうか。

 もし、「A道」にわたしたちが立ったとしても、周囲は家が立ち並び、鉄道の路線も変わり、水路は埋立てられ、道路は田園風景を切り裂くように拡張され、風景そのものを変貌させてしまっている。変わらないのは、空と、太陽と、風だけであるというように、およそ現場を特定できるような材料は残ってはいないのだ。

 ただひとつだけ、可能性としてあるのは、「A道」の行方の先にあった送電線の鉄塔だけである。
 わたしたちは現地を歩き回りながら、この鉄塔の見える場所を探し続けた。
 そして、やっと見つけたそれらしい場所が、下の写真である。
 この場所は、かつての目蒲線本門寺駅、つまり道塚駅からすこし西に寄ったところである。
このあたりは、目蒲線の路線も今とは違うところを通っており、道も環状八号線によって大きな変化を受けている場所である。

 昭和15年地図では、たしかに存在したいたその道を辿って行くと、まず線路が横切る場所があり(今は線路は北側に移動している)、その遥か前方には鉄塔がいまでも見える。
 興味深いことに、電柱の位置まで、当時と今とでほとんど同じように並んでいるのがわかる。電柱は、八十年の歳月を生き延びてきたということか。

第16回 ついに見つけたまぼろしの道

(図版44 吉井家の横の道で待ちかまえる悪ガキ)


第16回 ついに見つけたまぼろしの道

(図版45.「A道」の現在。兄弟は家を出て、線路の前を右折して学校へ向かう
現在は、環状八号線があって地形が変わっている)


 このように、先方に踏切があり、さらにその先に鉄塔が見える場所は、ここにしかないのである。 わたしたちが、この道こそ「A道」だろうと確信したのは、もうひとつ、ずっと謎であった線路の右端にあった黒い三角形の木枠の理由が分かったからであった。
 当初、この三角形の木枠は踏切だろうと考えていた。
 しかし、先生と父親が渡ってきたのは、その踏切ではなく別の「B道」の踏切であった。
 先生と父親は、「B道」を渡ったところで立ち話をしているのだが、この立ち話の道が「A道」に変わっているのである。

 小津監督は、「A道」と「B道」を同じひとつの道として別々の場所で撮影したということである。
 「A道」には「B道」にない特徴的なものが映り込んでいた。
 それが、黒い三角形の木枠のようなものであった。
 いったい、この黒い三角形の木枠は何だったのだろうか。
 わたしたちは、現地を歩いていて、現場らしい場所に立ち、周囲にかつて何があったのかを考えたのである。そうすると、図15で示した六郷用水がこのあたりを横切っていることが分かったのだ。

第16回 ついに見つけたまぼろしの道

(図版46. 昭和15年地図上に、「A道」を落とし込む)


 図に示したように、目蒲線の線路はこの六郷用水を渡って矢口渡駅方面へ向かう。
 「これが、踏切じゃないとしたら、ひょっとしたら、橋なんじゃないのか」
 「そうだよ、橋だよ、橋に間違いない!」
 それは、長い間の疑問が一気に氷解した瞬間であった。

 わたしたちは、ほぼ同時に、これが六郷用水路を跨ぐ橋であることを理解した。そして、水路の上の橋を渡っていく電車を頭の中に描き直したのである。
 戻って、映像をみると、電車の進入角度も、背景の鉄塔も、そして橋の存在も、すべてに不合理なく納得できるものであった。
 写真17に映っていた、左側の白く光る帯の謎もこれで解けた。これこそ線路を斜めに横切って流れてくる六郷用水路だったのだ。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

バックナンバー