隣町探偵団

第21回 小学校を構成するピース(断片)後編

2013.08.17更新

第21回 小学校を構成するピース(断片)後編

(図版62 (図版60 池上線急カーブ地点2。図版59の現場写真)


第21回 小学校を構成するピース(断片)後編

(図版63 学校道)


 昼間この場所に立ってみると、前夜感じたよりも一層、これこそが学校道ではないかという感覚が募ってくる。電車の進入角度も、「映画」のそれと、ほとんど同じような感じである。しかし、この場所こそが、学校道だと感じさせたものは、ただそれだけではない。印象でしかないのだが、以前より不思議に思っていた校門手前の家並みの謎が、ここにあるように感じられたのである。わたしは、謎が解ける一歩手前に立っているという不思議な感覚を味わっていた。この感覚を誘発しているのは、画面左手にある御薗神社である。

 御薗神社は、「映画」撮影時にもここに存在していた。映画の学校道のシーンを何度も観ていると、門までの道すがら左手に映っている建物は、学校ではないことがわかってくる。当初は、学校の一部で、その先に学校の門があると思っていた。しかし、カメラは図版63で、切り替えられて、その後に学校の門の前が写し出される。図版63の左の写真に写っている建物は学校ではないのである。それでは、この建物は何なのだろうか。民家にしては大きすぎるし、学校にしては切り妻屋根が不自然である。

 図版62を見ると、暗渠になったドブらしき形状がある。このドブは左の写真にもあるし、右の写真にもある。それは、左の写真と右の写真が、同じ道であることを示している。
 だとするならば、何故カメラは切り替えられなければならなかったのか。
 その理由はひとつしかない。
 ワンシーンでカメラを回すと、映ってはいけないものが映りこんでしまうからである。

 映ってはいけないものとはなんだろう。
 それは、図版62の右の写真にある、学校の門が作り物のセットであることを感じさせてしまう致命的な何かである。
 学校道の途中の左手には、御薗神社があったのだ。そして、その付属建物の一部を、校門に見立てたという推理をたててみる。カメラを切り替えた理由は、その前後にここが神社であるとわかってしまう何かがあったということではないだろうか。

 それは、たとえば鳥居であり、狛犬であり、神社の看板である。
 以上はわたしの推理であり、八十年前の風景を復元できない以上は、推理を実証することはできない。しかし、わたしにはここに、この「映画」の手法上の謎が隠されているような気がするのである。
 この道が学校道であるとする根拠は他にもある。進行方向右手を通る電車の速度である。
 映画では、正面の踏切を通過する電車の速度に対して、右手方向を走る電車はゆっくりと走っているように見える。

 最初にこのシーンを見たときにも、わたしはその速度が気にはなっていた。
 この場所に来るまでは、その理由がよくわからなかったのだが、現場に立って初めてこの電車の速度変化の理由を理解することができた。

第21回 小学校を構成するピース(断片)後編

(図版64 学校道の右手側をゆっくり通過する電車)


 その理由とは、このすぐ先に蓮沼駅があるからなのだ。だから、池上線は、このあたりからブレーキ運転をしているのである。
 現場写真では、少し距離が離れすぎているように見えるが、実際のポイントではもっと近くを走っている。今は間を建築物が塞いでいるので、見えるところまで戻って撮影したので、距離がその分遠くなっているが、実際にはもっと踏切よりに校門があるので、右手方向の距離も短い。

 さらにもう一つの根拠をあげておきたい。踏切の奥に見えるこんもりとした丘のようなものの正体である。
 この付近には高い建物はない。ただ、この道の延長上には黒澤村があるのだ。おそらくは、黒澤村の社員住宅と、その背後の大倉陶園の建物群、それらを取り囲んでいる木立ちがこの場面にシルエットで映りこんでいるものの正体である。
 いくつかの条件が一致し、わたしは、ここが学校道のロケ現場であろうと判断した。

 わたしの推理が正しければ、、さらにもうひとつのおもしろい因縁が生まれる。
 それは、この学校道を少し戻ったところにある「日本キリスト教会」の建物の存在である。昭和15年地図上には、教会を示す十字架のマークが、広大な敷地の一角に印刷されている。
 いったい何故、御薗神社の直ぐ隣に「日本キリスト教会」ができたのか。どうやら、それには、黒澤貞次郎が関係している。黒澤貞次郎の私邸が、御薗にあったらしいという情報は、以前に、偶然に立ち寄った道塚のそば屋で聞いていた。御薗神社の隣にあるこの教会こそは黒澤の私邸の一角を教会に譲ったとは考えられないだろうか。
 わたしは、だれかそのあたりの事情を聴きだせるかもしれないと思い、教会の中に入ってみた。

 品の良い老婦人がやや困惑したような顔で応対してくれた。わたしの説明をひととおり聞き終ったあとで、彼女はこの教会の由来に関しては良くわからないと申し訳なさそうな顔をした。誰かわかるような人はいないだろうかと聞いてみたのだが、現在この教会には牧師がいないとのことであった。牧師がいないという意味は、外出中ということではなく、牧師不在の教会になっているということらしかった。

 取材の目的などを詳しく説明していると、今度は初老の男性が出てきて、黒澤のことは知っているが、どのような経緯でこの土地に教会ができたのかについてはわからないという返事が返ってきた。
 わたしは、これ以上ここにいても目ぼしい成果は得られないだろうと思い、礼をして帰ろうとした。そのとき小さな本棚に目がいった。そこに、「教会五十年史」という本の背表紙が見えた。
 かれらに許可を得て、その本を手に取ると、中に設立当初のことを記した記録があった。
 この教会が本格的にスタートしたのは1932年(昭和七年)ということであった。

 わたしは、思わず声を出しそうになった。
 昭和七年といえば、まさに小津が『生まれては見たけれど』を作った年である。
 さらに驚いたのは、その本の記事のなかで、次の記述が見つかったことである。

 それは、この教会の教会員の移動一覧表の中にあった。
 敷地の獲得から、教会建設までの間に信徒の移動や、教会の建設準備といった期間があった様子である。
 移動一覧表には、教会がこの地に建立される以前の、伝道所の活動が記されていた。
 昭和二年に、伝道協会建設式が行われ、その主任者は栗原久雄という牧師であった。

 教会で出会った二人によれば、この栗原牧師が当時、このあたりに教会の土地をさがしており、 現在の場所こそが最適であるということで、地権者から譲り受けたという話であった。
 記録には、昭和二年五月二十九日の日曜日に、建設式の委員を選出したと記されていた。
 その委員の名前の中に、何と黒沢英二という名前があったのである。しかも、黒沢英二は、この日の日曜学校のオルガにストである。

 黒沢英二といえば、黒沢貞次郎の二男の名前である。しかし、このときは、黒沢姓はありふれた名前なので同性同名ということもあるかもしれないと思い、さらにその先の記述を目で追っていった。そこに、この日の受洗者の名前が連ねてあったが、黒沢の名前はなかった。さらに読み進めると、転入者の名前のなかに、黒沢姓が数名見つかった。ひとりは、巣鴨から転入してきた黒沢きくであり、もうひとりは海岸から転入の黒沢なか、さらに巣鴨から黒沢ゆき。黒沢英二も巣鴨からの転入である。

 どうやら、この教会の設立を期に、さまざまの伝道所からこの教会に結集してきている様子である。
 わたしは、黒沢貞次郎の係累の名前を反芻してみた。
 妻きく、長女ゆき、二男英二、三女なか。
 わたしは、ほとんど絶句した。この教会には、妻、長女、二男、三女が転入してきているのである。

 わたしは、ここに至って、この教会の土地とはもともと黒澤貞次郎の私邸があった場所であり、その片隅に教会が建設されたことを確信した。
 この『教会五十年史』には、口絵写真があった。それは、庭で関係者がおさまっている記念写真であった。どこかで、見たことのある写真に思えた。
 それは、『大田区史』のグラビア写真で、何度も目にしていた、黒澤貞次郎が主催する園遊会の写真で、そこには蒲田松竹の女優たちが招待されて黒澤貞次郎らと一緒に映っている。
 『教会五十年史』の記念写真と、『大田区史』の写真は、ほとんど同じ時期に撮影されたもので、撮影場所の雰囲気はほとんど同じ場所だと思わせるものがあった。
 この、黒澤私邸には、キリスト教会があり、松竹蒲田の女優達も度々訪れていたのだ。

 小津は、学校横の道として、黒澤私邸と黒澤工場を繋ぐ道を選んだのである。そこには、単なる偶然以上のものがあるように思えたのである。

 小津は、この道に学校の門だけを作り、校庭は別の場所にある矢口尋常小学校を使い、さらに学校までの途中路は踏切2からの直線路を使って撮影を行った。「踏切2」の道を右折してカメラが切り替わり、その先は御薗神社横の道を学校横の道として撮影した。
 「踏切2」から先の一連のシーケンスは、バラバラのピースを繋ぎ合わせて、ひとつの「映画空間」が作られたものなのである。

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平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

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