隣町探偵団

第22回 わからなかった、女子生徒がいない理由

2013.09.01更新

 これまでわたしたちが探し求めてきた「踏切1」も、「踏切2」も、「A道」も「B道」も、そして吉井父子の家も、雀の卵を採った場所も、駐在所も、リアリティのある「映画空間」を作り出すためのピース(断片)だった。

 わたしたちは、ピース(断片)を探し出し、それが最終的にどのようにして「映画空間」というジクソーパズルの中に嵌め込まれ、もう一つの現実を作り出したのかを探ればよいのだ。
 だが、何故それぞれのピース(断片)は、それぞれの場所でなければならなかったのか。おそらくは、その謎の完全な答えはないだろう。様々な理由によってロケ地が選ばれ、それを絶妙な編集で繋いで完璧ともいえる「映画空間」が出来上がった。

 しかし、それでもなお、わたしにはそれぞれのピース(断片)を内的に繋いでいる糸を探ってみたいという誘惑に駆られる。たとえそれが、荒唐無稽の空想であったとしても、小津にはそれぞれのピースを、ある内的な関連をもった鉱脈から掘り起こしてきたように思えてならないのである。(これに関しては稿を改めてまた考えてみたい)。

 ところで、わたしには、もう一つ気になっていることがあった。
学校がどちらであるにせよ、「映画」の中には女子生徒がひとりも映っていない。この「映画」の前年に作られた『東京の合唱』では、校庭での教練がおこなわれており、こちらにも女子学生が出てこない。

 当時は、中学校以上は男女別学であったが、小学校は共学であった。
 ちなみに前出の『矢口町誌』には、当時の学校の在籍の様子が記されている。
 矢口尋常小学校は、職員数21名。高等化男子143名、女子96名。
 尋常科児童では男子444名、女子394名。
 一方の矢口東小学校では、職員数が24名。児童数は男子629名、女子624名。
 ちゃんと、女子児童が通学している。

 何故、『生まれてはみたけれど』では女子がひとりも出てこないのか。
 そのあたりの事情に関しては、『矢口町誌』には触れられていない。
 実際には、女子児童がいたのだが、映画の撮影上、男子のみのエキストラが使われたということなのか、それとも満州事変という時代背景のために、この『矢口町誌』が刊行される直前か直後に、男女別学が施行されたのか。
 いまのところ、わたしたちにはこの不思議な光景を説明する材料がない。『矢口町誌』には、第十節、教育という項目のところに興味深い記述がなされている。

我が郷土の人口は昭和六年末現在にて二萬二十を算し、之を大正十二年震災の年の四千百十六に比較するに、約一萬五千九百の増加である。このうち出生による増加も勿論あるが、大部分は移住者による増加である。而してこの移住者の大部分は所謂勤人である関係上教育の程度は概して高いのである。然し従来の土着民は其の職業的関係よりして、前者に比し稍々劣り、尋常科或は高等科卒業程度の者が其の大部分を占めてゐる。
(『矢口町誌』より)

 大正十二年から昭和六年までの八年間で、なんと生徒数が倍以上になっている。そして、その理由として、出生増加ではなく、そのほとんどが移住者であると記されている。
 蒲田周辺のこの地区が、戦前昭和の時代に勤め人にとっての新天地であったことをうかがわせる記事である。
 戦前昭和という時代に、なぜこの地域に、都市生活者たちが大量に流入することになったのか。そこには、何があったのか。

第22回 わからなかった、女子生徒がいない理由

(図版65 蒲田区における人口と歳出 昭和七年調べ)


 人口が急増しているのは、蒲田区も同様である。昭和元年に、32,533人だった人口は、昭和七年には51,307人に膨れ上がっている。
 このうち、昭和六年の同町の自然増加数は792人であったのに対して、移入者数による増加は3,928名と五倍である。この移入増加数はそれ以外の年においても、五倍から、10倍ぐらいまでの幅で自然増加数を上回っている。
 いったい何が、蒲田、矢口といった場所に人々は吸い寄せられたのか。
 これについては、稿を改めて考察したいと思うのだが、ひとつだけ以前より気になっていたことがあった。それは、これまでも何度か触れてきたのだが、この地に「我等が村」を作り上げた黒澤商店という会社の存在である。
 
 黒澤商店は、今ではほとんど顧みられなくなった会社であるが、当時は他に類例を見ないほど 「先進的」な会社であった。別の言い方をするなら「奇妙」な会社であった。
 先の、『矢口町史』の中にも、黒澤の文字が出てくるところがある。しかし、主たる工場として黒澤工場、大倉陶園、東京ラバー工業などが列挙されているだけで、なおかつ「本町においては工業について格別取り立てゝ述べることもない」などと解説されているのである。

 それに比して、農業に関しては多くのページが割かれており、「京浜工業地帯を隣に有する本町は不思議にもその餘波を受けない。もとより関東平野の土地に於ては農業がその主産業であろう」と記されている。そして、この地は水田には乏しいが、畑が多く、その理由は大都会の需要があったからだと結論付けている。

 蒲田は、都市郊外の田園であった。
 その田園のなかに、人間が居住し、労働し、資源が循環する理想郷をつくろうとした企業経営者がいたのである。その多くは、イギリスの社会改良主義の伝道者の影響を強く受けていた。エベネザー・ハワードの田園都市構想は、その最たるものであっただろう。黒澤貞次郎は、幾人かの社会改良主義の影響下にあった経営者のうちの一人であった。

 黒澤の名前が頻繁に出てくるのは、産業の項目ではなく、教育の項目のところで、黒澤幼稚園、私立黒澤尋常小学校という二つの教育機関が名を連ねている。黒澤尋常小学校の生徒は、男子52名、女子50名の合計102名。それに対して先生は5名である。(昭和七年9月1日現在)。
他の教育機関に関しては『矢口町史』はページを割いて説明しているが、黒澤幼稚園と黒澤尋常小学校に関しては、生徒数以外の説明がなされていない。

 そもそも、戦前の、財閥系の企業でもないし、巨大企業でもない黒澤商店なる企業が、田園風のこの矢口の地に、学校まで作るというところに、いかなるモチベーションだったのか。わたしたちは、映画『生まれてはみたけれど』を分析しながらも、常にこの黒澤商店のこと、その社長である黒澤貞次郎という人物のことが気になって仕方がなかった。

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平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

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