隣町探偵団

第23回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 前編

2013.09.14更新

 ここで、しばらく「映画空間」のピース(断片)探索の手を休めて、これまでの隣町探偵団の捜査線上に浮かんでは消え、消えては浮かんでくる不思議な共同体について考えてみたいと思う。

 その共同体とは、黒澤貞次郎がつくった黒澤工場であり、黒澤工場を中心とした自給自足型の共同体であった「吾等が村」のことである。いったい何故、このような共同体がこの地に出現したのか。そしてそれは何故忽然と姿を消してしまったのか。
 わたしは、松竹が蒲田に撮影所をつくったことと、黒澤貞次郎が黒澤村を作ったことの間には、どこかで不思議な因縁があるように思えてならないのである。

 戦前昭和という時代、京浜東北線、東海道線を挟んで、東にキネマの天地、西に労働者のユートピアが同時に存在していたのが、蒲田という場所であった。
 戦前昭和の蒲田は東京でも稀な田園都市であり、戦前昭和とは日本の歴史のなかでも稀な光彩を帯びた時代であった。
 歴史の中の一瞬の輝きのようにも思えるこの時代に、わが『生まれてはみたけれど』という映画が生み落とされている。
 八十年の歳月を経て、隣町に生まれたわたしたちが、映画に引き寄せられてこの地を彷徨いながら、再び黒澤工場に出会うというめぐり合わせにも不思議な因縁を感じる。

 『生まれてはみたけれど』という映画ロケ地を探訪しようとしているわたしたちに、歴史の側から声が届いているような気持になる。その声は「映画は、歴史の入口に過ぎない。その入り口のさらに奥へ行くべし」と囁きかけてくるように思えるのである。

 黒澤貞次郎の年譜を調べてみると、最後まで個人経営による家族主義にこだわり、利益の大半を納税しなければならなかったらしい。終戦後も、非戦災者税及び死後の相続税で、極めて過酷なる支払に苦しめられた。稀代の経営者にして、社会改良家であった黒澤貞次郎は1953年、大田区調布嶺町1丁目94番地で逝去する。わたしが三歳のときである。しかも今現在わたしが暮らしている大田区調布嶺町で没している。これもまた、因縁か。

 黒澤貞次郎の履歴をもう少し詳しく追ってみよう。
 明治8年(1875年)貞次郎は、日本橋室町に生まれた。若き日より英語に興味を抱いていた貞次郎は、薬問屋の小僧奉公が終わるころ(明治23年)一念発起してサンフランシスコ行の船に乗りこんだ。しかし、アメリカ西海岸での生活は、来る日も来る日も、芋ほりや缶詰工場での労働といった単純な肉体労働の連続で、その対価はわずかなものでしかなかった。

 明治30年、「東にはもっといい仕事がある」と聞いた貞次郎は、シアトルでの仕事に見切りをつけて、ニューヨーク市へ向かう。そこで出会ったのが、エリオット・ハッチ・ブックタイプライター社の社長、エリオット・スミスだった。貞次郎は同社に就職し、その傍らカナ文字タイプライターの発明に着手した。

 明治34年、27歳の秋に帰国して、現在の銀座並木通りに二十坪ほどの店舗を構える。
 これが、日本最初のタイプライター販売とサービスの会社、黒澤商店の創立であった。
 明治43年には銀座尾張町に線路の廃材を使った鉄骨の新ビルを建設して移転し、大正2年には蒲田の地に二万余坪にわたる土地を買収した。
 その後、関東大震災で大きな被害を蒙ることになったが、不屈の努力で工場を修復し、事業も再び軌道に乗せていく。その間、蒲田の工場を中心に、社宅、農園、遊園地、テニスコート、そして学校が建設され、日本に稀有な「工場村」が出来上がっていく。
 まさに、立身出世街道の中心を歩んだ立志伝中の人物像である。

 平成8年発行の『大田区史』 は、黒澤工場村を次のように説明している。

 まさに黒沢工場村は、店主黒沢貞次郎を父として、「一方ならぬ御教導」をなし、「一視同仁」によって築れた一大家族の「吾等が村」として営まれていた。村の生活は、大正一四年(一九一五年末)において、八六戸三二○余人からなり、「吾等が村は一大家族主義であります。相互に扶け合ひ、親切を旨とし、睦ましく、愉快に苟くも人の噂さをする如きを慎み、模範工場としての面目を永久に保持する様努め居らるゝ事は信じて疑はない所」であるから、「勤倹を主とし、和気藹々真の水入らずのおつきあいを致したい」とよびかけたなかにうかがえよう。 (『大田区史』下巻、328頁)

 この黒澤村に関して、『大田の史話』によれば、「渡米中にみたシカゴのプルマン寝台車会社のコミュニティにならい、工場、従業員住宅、幼稚園、小学校、農園、プールからなる理想郷」と記されている。
 若き日の佐藤ハチローは、この工場を訪れて次のような感想を記している。

 門をくぐっておどろいた。左手に工場、右手に野菜畑、桜の並木は、はるかにつゞき、コンクリートの道には、ゴミ一つ落ちてゐない。(略) 学校のわきに、深さ一尺位のプールがある。夏になると水あそびをするのだ。学校の右側には、水道の給水塔がある。ことこゝに至っては、おどろきの一手より他にない。
(『僕の東京地図』より)

 このような中世田園都市を思わせる共同体が、五・一五事件や満州事変の時代の東京蒲田に存在していたことに、あらためて興味を抱かざるを得ない。
 昭和七年の時点で、黒澤工場、つまり『吾等が村』の敷地はどのようになっていたのだろうか。

第23回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 前編

(図版66. 黒澤工場 配置図)
資料:http://kurosawa.pagesperso-orange.fr/kamata2.html


 画像が薄くて分かりにくいが、この図の上下をひっくり返してみるとまさに、昭和七年の「映画」の中で子どもたちが遊んでいた操車場原っぱにピタリと納まるのである。

第23回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 前編

第23回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 前編

(図版67. 黒澤工場と昭和15年地図および現在地図の蒲田操車場。航空写真は昭和22年のもの)


 黒澤工場の平面図には、社宅が整然と立ち並んでいる。黒澤小学校の建設は1929年である。 1923年(大正12年)の関東大震災で黒澤工場は倒壊し、液状化によってこの地域は大きな打撃をうける。しかし、震災後直ぐに自力で「吾等が村」は再興される。「映画」の撮影された1932年(昭和七年)には図の「吾等が村」はほとんどこの設計図のままの状態だったのか、あるいは1932年から第二次大戦までの十数年間で図のような村の最終形ができたのかは、資料からだけでは判定できない。

 「映画」では、黒澤村の整然とした社宅風景は映っていないが、新たな家が建設されている様子は移されている。(画面上に出てくる住宅が、社宅であるのかどうかは判然としない)。
わたしの想像では、「映画」が撮影された昭和七年には、小学校や幼稚園、工場など主要な建物は出来ていたが、まだ社宅は完全には出来上がっていない状態で、原っぱが残っていたのだと思う。
 「映画」の最も重要な「操車場原っぱ」の場面は、まぎれもなく黒澤村の庭先で撮影されたのである。

 はたして、小津安二郎はこの「吾等が村」をどう思っていたのだろうか。あるいは、小津と黒澤貞次郎との間に何らかの親交があったのだろうか。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

バックナンバー