隣町探偵団

第24回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 後編

2013.10.04更新

 わたしたちは、資料をひっくり返しながら関係のありそうな記述を探したのだが、小津と黒澤を直接結び付ける記事はなかなか出てこない。
 何度か「映画」を見返していて、なんとなく見過ごしていたのだが、吉井兄弟や悪ガキが「映画」の中でやっていた、不思議な遊びは何なのだろうかと気になった。
 遊びとは、まず中指と人差し指を相手の顔に向けて気合を入れると、相手は倒れてしまう。そこで、胸で十字を切り、手を広げて相手にかざすと生き返るという単純な遊びである。

第24回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 後編

(図版68. 子どもたちの不思議な遊び)


 どうやら、これを行使できるのは仲間内の番長格だけであり、この技を仕掛けられたものは、倒されたふりをしなければならない。この遊びには、子どもたちの間の格付けが暗示されている。自分が倒した相手を救済するためには、胸の前で十字を切らなくてはならないというのも気にかかるところである。

 最初は、当時の子どもたちのあいだで流行していた漫画か、映画の中の遊びを模倣したものであるのかと思って見ていたのだが、よく考えると麻布からこの地へ引っ越してきた吉井兄弟は、最初、この遊びの意味がわからず、術にかかるふりをしないのである。
ということは、東京のどこでも知られている遊びではなく、この蒲田ローカルの遊びであるということである。

 黒澤村は、日本の歴史上でも稀有な不思議なユートピアであった。そして、黒澤は熱心なクリスチャンであった。このことと、この十字を切って弟子を救済するという遊びはどこかでつながっているのだろうか。わたしには、この遊びが、唯一、小津安二郎と、黒澤貞次郎を繋ぐ、かすかなシンボルであるように感じられるのである。(もちろん何の根拠もないので、深読みしているだけかもしれないが)。

 黒澤村の庭先で撮影しながら、どこにも黒澤村の施設が映っていないということにも、小津の意図を感じる。小津はどこかで、この黒澤ユートピアに疑念を抱いていたのかもしれない。疑念を抱きながらも、松竹蒲田と黒澤貞次郎との関係の中で、この場所を撮影場所として使ったのかもしれない。

 あるいは、サラリーマン一家の小市民的な生活を描くという小津の意図と、黒澤村はあまりにかけ離れたものだったということだったのかもしれない。
小津の日記や、関係者の発言のなかに、黒澤村への言及がないので、本当のところはよくわからない。

 ただ、ひとつだけ大変重要な発言を見つけ出すことができた。
 灯台下暗しというか、いつも見ていた「クロサワタイプライター/印刷通信機」というホームページのなかにそれはあった。

このホームページは黒澤貞次郎の縁戚(お孫さんか?)である黒澤オサム氏によって制作されたものらしいのだが、現在黒澤オサム氏はフランス政府公認通訳ガイドをしている。ホームページは入口が二つあり、ひとつは黒澤オサム氏のドメインである「フランスものがたり」で、もひとつの入口が「クロサワタイプライター/印刷通信機」になっている。そこに黒澤村の当時の写真、歴史、関係者の証言などが収められており、その中に黒澤村の住人であった水戸幸子という女性による「我が黒澤村想い出ばなし」という手記がある。

 その中に、映画ロケに関する記述があったのである。記述によると、江川宇礼雄、鈴木伝明、大日方伝といった役者たちのロケがよく行なわれていたとあり、水道裏の松林を海岸の松原にみたてて金色夜叉のロケまで行なわれている。そして、「斉藤達雄、八雲理恵子さんのコンビのロケ」が行なわれ、電線にかかった凧をとろうとして電線から落ちる場面で、斉藤達雄が 落ちるに落ちられなくなり、下に布団等敷いてやっと落ちて撮影が終ったということが、記されている。水戸幸子さんの文章は、それらのロケを工場の昼休みや学校の昼休みなどに見て、皆で楽しんでいたと結んでいる。

 わたしは、この記述を見て思わず膝をたたいた。
 斉藤達雄、八雲理恵子のコンビのロケとは、何だろう。当時、斉藤達雄とよく共演していた女優とは、八雲理恵子ではなく八雲恵美子である。ところが調べてみると、八雲理恵子と、八雲恵美子は同一人物であることがすぐにわかった。昭和八年の『浮草物語』に出演したときには、八雲恵美子は理恵子に改名しているのだ。いずれにせよ、斉藤達雄とこの女優は何本かの作品で、コンビを組んでいる。昭和五年の『その夜の妻』、昭和六年の『東京の合唱』、昭和九年の『浮草物語』である。当時の蒲田でロケをしたサラリーマンものだとすれば、この作品とは小津安二郎の『東京の合唱』である可能性が高い。

 『東京の合唱』は、まさに『生まれてはみたけれど』と同じくくりで語られる同時代の小津作品なのである。
 だが、『東京の合唱』の中に、電線にひっかかった凧をとるシーンはない。いったい、この水戸幸子さんの証言の映画は何なのか。小津作品ではないのかもしれない。
いや、小津作品で間違いないだろう。なぜなら、小津は『生まれてはみたけれど』の中で、電線に凧がひっかかっている印象的なシーンを挿入しているからである。

第24回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 後編

(図版69. 電線に凧が引っかかっているシーン)


 そこで、小津の戦前の映画をもう一度見直してみた。
 斉藤達雄、八雲理恵子が出ている作品の中に、そのシーンを見つけることができなかったのだが、驚いたことに、1929年制作の『突貫小僧』の中に、明らかに黒澤工場が映りこんでいる場面があったのだ。
 この背景に特徴のある黒澤工場と、社員住宅がありありと映りこんでいる。

第24回 黒澤貞次郎が蒲田に作ったユートピア 後編

(図版70. 黒澤工業の工場(下)と社宅が映りこんでいる映画『突貫小僧』(上))


 やはり、小津は黒澤村で撮影をしており、そのロケ風景を黒澤村の人々が楽しみにしていたのである。

 松竹蒲田と黒澤工場が密な関係にあったことは、貞次郎と松竹蒲田の女優が、黒澤邸らしき場所で記念撮影している昭和4年の写真が残されていることからも類推できる。(『目で見る大田区の100年』)
 そもそも、松竹が蒲田の地を撮影所として選んだことの理由として、ここに黒澤村があったからだと推定することもできるように思える。当時撮影所を探していた松竹は、撮影所用地買い入れ希望の新聞広告を出す。そこに、なんと二七県、九四か所の候補地が名乗りを上げたという。
最終的に松竹が蒲田に決めた理由は、単に交通の便が良かったということだけではないだろう。蒲田は東洋のハリウッド建設という松竹の思惑に適う特別な場所であり、蒲田が特別な場所だったのは、まさに黒沢貞次郎の「吾等が村」の存在があったからではないのか。黒澤貞次郎が、蒲田に二万余坪の土地を購入し、「吾等が村」の建設に乗り出したのが大正五年。松竹が蒲田に「キネマの天地」を作ったのが大正九年。まさに、この東西の拠点によって、蒲田は東洋の新天地としての未来を約束されていたはずであった。

お便りはこちら

みんなのミシマガジンはサポーターの皆さんと運営しております。

平川克美(ひらかわ・かつみ)

1950年東京生まれ。早稲田大学理工学部機械工学科卒業。渋谷道玄坂に翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを内田樹らと共に設立。現在、株式会社リナックスカフェ代表取締役。また、株式会社ラジオデイズにて音声コンテンツダウンロードサイト「ラジオデイズ」を運営。2011年からは立教大学ビジネスデザイン研究科の特任教授に就任し、ビジネスから教育へと活動の場を広げている。

著書に『ビジネスに「戦略」なんていらない』(洋泉社新書)、『株式会社という病』(講談社現代新書)、『俺に似たひと』(医学書院)、『移行期的混乱―経済成長神話の終わり』(ちくま文庫)、『移行期的乱世の思考』(PHP研究所)、『小商いのすすめ』(ミシマ社)など。

バックナンバー