石井ゆかりの闇鍋インタビュー

第6回 赤井さん・その1

2014.08.18更新

現場に行くまで誰が相手なのかわからない、
戦慄のインタビュー企画第6回目は
大阪・梅田で行われた。
今まではずっと京都市内、もっと言えば
中京区から外に出ていなかったので
これが初めての「出張インタビュー(?)」となる。
とはいえ、京都から大阪までは電車で1時間かからない。
「京都から大阪」というと旅みたいなのであるが
国分寺から渋谷や銀座や茅場町に通勤していた頃のことを思い出すと
ぜんぜん「出張」なんかではないのである。

しかし、そんなご近所の京都と大阪は
まるで別世界である。
これだけ際立ったコントラストが生まれるのはなぜなのだろう。
景色も、匂いも、スピード感も、喋る言葉までもが、ちがう。
たぶんこれは、「双子は性格の違いが際立つ」みたいなものかもしれない。
近いからこそ、その差を際立たせたいという暗黙の意識が作用し
「あっちとはちがう」みたいな差が大きくなったのでは
と、妄想した。

指定の喫茶店に早めにつくとほどなく、
ミシマ社の新居女史がやってきた。
この日、私はちょっと落ち着かない気分でいたので
彼女が来ると、とたんにしゃべり始めた。
というのも、この日
私が卒業した高校の野球部が
甲子園の地方大会で、決勝に出たのである。
母校はスポーツなどちっとも力を入れていない、
単なる公立高校である。
一方、相手は選手のほとんどが他県からきているような、
スポーツで有名な私立高校だったので
地元は俄然盛り上がっていた。
試合は手に汗握る接戦の末、母校の負けだった。
私は、
高校ではいじめられたりしてあまりいい思い出がないし
スポーツもちっとも興味がないのに
なぜ、こんなに興奮するのだろう。
そう、大して愛国心もなく
サッカーのルールも解らないのに
ワールドカップでドギマギした人もたくさんいたはずだ。
私たちの「帰属意識」というのは
一体、どういう構造になっているのだろうか。
聞けば、新居女史はかつて高校野球ファンだったそうで
野球や部活の話などで、少し盛り上がった。
然し彼女はそのあいだ、
ちょっと変な顔をしていた。

やがて、今回のインタビュイーが到着したのに気づき
新居さんが起ち上がった。
私も立ちあがりながらドアの方へふり向くと
そこにいたのはなんと
小柄な、制服姿の、日焼けしたかわいい女の子であった。
これがいわゆるひとつの
「JK(女子高生)」
か!!
っていうか
今なんで高校時代の話とかしてたんだろう! こわい!!
誓って言うが
占いで知ったとかそういうのはない
(そういうのができればもっとちがう生き方をしている)。


「進路指導」のいまとむかし。

今回、インタビューを受けてくれる赤井結花さんは
現在高校3年生の17歳である。
今は夏休みだが、
学校では夏期講習が行われており
その帰りに、ここに来てくれたのだった。
夏期講習を受けているということは、受験生である。
志望校を聞いてみた。
「看護系です。
喘息とか、アレルギーとか、
そういう、普通の生活を送れない人の手助けがしたいと思って」
と、即答が返ってきた。

彼女のお母さんも看護師をしているという。
そして彼女自身、喘息もちなのだった。
私も子どもの頃は小児喘息と言われ、
今でも2年に1回くらい発作が出るので
その苦しさはよくわかる。
あの、気道が狭まってしまう感じは
水もないのに溺れ死んでしまうのではないか
というはげしい恐怖をともなう。

赤井さんは、中学生の時はバスケをやっていたが
高校に入ってからは、陸上部に所属した。
高校にはバスケ部はなく、
仕方がないのでいろんな部を見て回ったが
部員の雰囲気が一番、良さそうだったからだ。
私も徐々に高校時代の空気を思い出した。
たしかにおなじ学校なのに
部によってその雰囲気はえらくちがっていた。
不良っぽかったりキャピキャピしていたり、
逆にやたらとストイックだったり。
たまたまその時期に所属した部員達のキャラクターや
指導者の方針にもよるのだろう。
決して優等生的ではないが、
穏やかで落ち着いた雰囲気を持つ彼女が
賑やかな部に違和感を感じたのはよくわかる。

陸上部で短距離走に取り組んだが、
外のグラウンドでで走る部活動は
喘息のこともあって、彼女の体に合わなかった。
退部しようと思い、先生に話すと、
「マネージャーというかたちもある」と言ってもらえた。
マネージャーになることなど考えたこともなかったが、
陸上部の人間関係が本当に好きだったし、
引き受けることにした。

私は完全な文化系だったので、
運動部のマネージャーが具体的にどんなことをするのか
そういえば、まったく知らないなあ、と思い、聞いてみた。

「走るタイムを計ったりとか、
トレーニングの時間を計ったり、
計る仕事がほとんどですね。
あと、コースのラインをひいたりとか」
「ああ、今もあの白い粉でひくの?」
「はい、石灰です」

なつかしい。
そういえば、体育用具が置いてあるところに、
あの粉と線を引く、コロコロ転がす車みたいなのが置いてあって
よく先生の手伝いをした。
ずっと忘れていた場景があざやかに蘇った。

日焼けした彼女の表情を見れば
部活動は、充実したものだったのだろう。
ひょんなことからなった、マネージャーというポジションと
彼女が志望している、看護師さんという仕事は
なんだか、韻を踏んでいるように思えた。

とはいえ、大学受験はなかなか、大変らしい。
部活に打ち込んできた2年間だったため、
勉強にはそれほど熱心ではなかった。
「先生には、
『これ以上がんばれない、と思うくらいがんばれ』
といわれます(笑)」
高校3年生の夏は、確かに、
受験が目の前に迫ってくるような時期で
プレッシャーも強いだろう。
自分はどうだったっけ、と思いだしてみたが
彼女のように進路ははっきり決まっていなかった。
いつ頃進路が決まったのか、と聞くと、
なんと、高校1年生のころだと言う。

「1年の時、職業選択のための冊子のようなものを渡されて、
それを見て、先生の話を聞いたりして
『貴方の将来の夢は?』
みたいなことを、紙に書かされるんです。
そういうことを何度かやって、
そのうちに決まっていった感じです。
1年の3学期に理系コースか文系コースか、
選ばなければならないので、
最初は看護系とか、あまり考えてなかったんですが、
だんだんに、そっちにいこう、と思うようになりました。
理系から文系に変えるのはできるけど、
逆はむずかしいじゃないですか」

1年生から文系か理系かを選択させるのか。
私は驚いた。
ミシマ社新居女史は今24歳で、
世代的には、彼女と私の間(かなり下寄りだが)にいる。
「新居さんのときもそういうのあった?」
と聞いてみると、
「1年から職業の話とか、そこまではなかったですね。
でも、教育実習に行ったときは、ありました」
とのことだった。
新居さん、教職持ってるのか......と
別のところで感心した。

もとい、そうした指導をする先生も大変だなあ、と思った。
先生方は、「いろんなキャリアを持った人々」ではない。
大学に進み、教育課程を学び、教員になって、そこにいるわけだ。
職員室にはほぼ完全におなじ進路を選んだ人々が集まっていることになる。
一方の子ども達は、バラエティに富んだ道をそれぞれ
歩んでいくことになるはずなのだ。
これは、どう考えればいいのだろう。
もし私が高校1年生のとき
「職業選択をせよ」
といわれ、指導を受けていたら、どうだっただろう......と想像した。

私は赤井さんと少し似ていて、
「文系にいったら、理系には戻れない」と思い、
理系クラスに進んだ。
赤井さんのクラスは、理系と言っても
看護系や薬学、食物学などを目指す子たちが多いので、
女の子がかなりいるらしい。
私がムリして所属していたのは理学部や医学部志望がいるところだったので
45人くらいのクラスに、女の子は3人だけだった。
そこで、私は完全に落ちこぼれた。
受験したのは3つの大学で
それぞれ文学部、理学部、経済学部だった。
何がしたいのかまったく決まっていなかったのだ。
これを見た先生にも「なにがしたいんだ」と言われたが
これは、真面目な答えを期待しての問いではなく
ボケに対するツッコミみたいなものだった。

たぶん、進路や将来のことを考えていなかったわけではないが、
何でもできそうだし、何にも夢中になれない、
という状態だったのだろう。
大学を卒業したらどのみち、働かなければならない。
働くとしたら、どこかの会社に入って働くのだろう。
運よく入れた会社で、その会社のやっている仕事を覚えればいいや
くらいにしか思っていなかった、ような気がする。
ゆえに、就職活動では大失敗をした。

もし、私が高校時代にシステマチックに
「何になるんだ? 何になるために何を勉強するんだ? 決めなさい」
という指導を受けていたら
いったいどんなことになっていたんだろうか。
今の私とは別の私になれていたのだろうか。
それとも、大して気にもせずに、やっぱりでたらめな道を歩いたんだろうか。
それは、絶対にわからない。
人生に「たら」「れば」はない。


*つづきます

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石井ゆかり(いしい・ゆかり)

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、独特の文体で老若男女を問わず人気を集める。著書に『12星座シリーズ』(WAVE出版)、『愛する人に』(幻冬舎)、『月のとびら』(阪急コミュニケーションズ)、『星の交差点』(イースト・プレス)など多数。

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