石井ゆかりの闇鍋インタビュー

第7回 吉田さん・その1

2014.10.20更新

「インタビューの場に行くまで、
誰にインタビューするのかわからない」、
文字通り闇雲なインタビュー企画、第7弾は
新しいミシマ社京都オフィスで行われた。
ちょっと前まで、ミシマ社のオフィスは
私の自宅から徒歩数分のところにあったのだが、
ついこのあいだ、川端丸太町という、
鴨川べりの、いかにも京都京都した場所に移転したのだ。
ミシマ社の自由が丘オフィスも一軒家だが、
丸太町のオフィスも、その雰囲気を移植したような
古くて広い一戸建てだった。

2階の和室に通されると、
既に今回のインタビュイーがそこにいた。
私と同年代くらいとおぼしき、
「気分のいい」気配をまとった男性である。

世の中にはたまに、
明るくてオープンな気配が自然に身についていて、
相手に「ここにいていいのだ」と感じさせることができる人がいる。
そういう人に過去、何度か出会ったことがあるが、
今回のインタビュイー、吉田さんも
まさにそういう力を持っている人だった。
私はどちらかと言えば、自己肯定感の低いタイプで
人に会うと「自分はここにいてもいいんだろうか」という不安を
常に感じ続けているところがある。
だからこそ
「そこにいてもいいんですよ」
という雰囲気を作ることができる人を感知するセンサーが
非常に鋭いのである。
なにかの役に立つ特技ではないが
「自己肯定感のある人にはできないこと」
があると思うと
なんかこう
心強い(意味不明)。

吉田さんは編集者の新居女史に、私を示しながら
「この段階で、(石井さんは僕のことを)何も知らない状態なんですよね?」
と、確認した。
これを聞いた私は、ふんふん、と激しく頷きながら
(この人はたぶん、なにかしらの分野で名をなしている方なのだろう)
と、推理した。
「何も知らないんですよね」
ということは
「知っててもおかしくないような『何か』がある」
ということである。
もしかしたらすごい著名人とかかもしれない。
であれば、知らないのはかなり失礼かもしれない。
しかしその「何か」は、なんだろう。
俄然、どきどきしてきた。


大学の違和感。

インタビューはおもむろに、雑談から始まった。
吉田さんは現在、五歳と三歳のお嬢さんの子育て中なのだった。
この日も本当は、連れてきて遊ばせながらお話ししていただくかも、
ということだったのだが、
偶然、預かってもらうことができて、一人でいらした。
今は京都市内に住んでいるが、宮崎で生まれ育った。。
大学入学を機に、関西に来た。

「もともと、大学に進学する気はなくて、
理学療法士になろうと思っていたんです。
地元の専門学校に行くつもりだったんですが
高校が進学校だったので、
先生から大学を受けてみるように薦められました。
そう言われても、どの学部を受ければいいかぴんとこなくて、
『じゃあ、福祉関係にいきたい』
と言ってみたところ、
滋賀大の教育学部の障害児教育はどうだと言われました。
先生に言わせると
『福祉関係の仕事にも、まあ、つながるだろうから』
というので、素直にそのまま推薦で受けて、
受かったので、若干不本意ながら、進学したわけです」

推薦受験は、高校ごとに枠がある。
入学辞退をすると次の年から
高校がもらえる推薦枠が減るので、
受かってしまえば、入学せざるを得なかった。

「入ってみると同期の学生がみんな、
どの学科の先生になるとか、そういう、
先生になる話ばっかりしていたんです。
教育学部ならみんな先生になるために入るのが当たり前なんですが
僕はそういうことをまったく知らなくて、
先生になるなんて微塵も思っていなかったので、
『福祉系ちゃうの?』
と、ショックを受けました(笑)。
さらに、言葉のコンプレックスもありました。
宮崎の言葉でそのまま、喋っていたので、
たとえば、宮崎ではよく聞き取れなかったことを聞き返すとき、
『え?』じゃなくて、『あ?』って聞くんですね。
『あ?』って、ちょっとコワイですよね、
怒ってるの? みたいな感じになる、
そういうこともあって、友達もなかなかできなくて、
結局、大学1年のときはずっと、大学行かずに、
部屋でドラクエしてました」

大学行かずにゲームしていた......
これを聞いて、私は新居さんに言った。
「そういうひと、いましたね」
「いましたねえ!」
詳しくは、闇鍋インタビューの第2回目「篠原さん編」
ご参照いただきたい。

しかし振り返れば私も
大学にはあまり行かずに、
バイトとダビスタ(ダービースタリオン。ゲーム。)に明け暮れていたか...
と思うに至った。
「同じ羽の色の鳥は同じ場所に集まる」
みたいな諺を
英語の授業で習ったのを思い出した(意味が違う)。


知らない世界への扉。

そんな失意の一年間が終わる頃のある日、ふと
春で陽気もいいし、たまには学校に行ってみようか、
と思った。

学校に行くと、
3人の学生が突然、声をかけてきた。
「一緒に学祭でライブやらへん?」
吉田さんはおもわず
「うん、いいよ、やるわ!」
と応えていた。
ライブと言うからには、
何か楽器を演奏するのだろう
と想像した。
しかし、その「ライブ」は、ちがった。
ヒップホップの曲をラジカセでかけて
それをコピー(?)する、という
斬新(?)なものだった。
いわば、カラオケである。

学祭の当日、他の出演者達が
普通に楽器を使ってバンド演奏する中、
吉田さんと3人は颯爽と舞台に登場し
ラジカセで「カラオケ」をした。

「観客というか、見ている学生はもう、
『ポカーン』ですよね(笑)。
その顔を見ていたら、気持ちよかったんです。
自分は1年のときずっと引きこもっていたわけで、
その間、普通のキャンパスライフみたいなものが
すごく羨ましかったんですね。
そういうキャンパスライフ的なものを送ってる人たちが
今、自分を見上げてぽかーんとしてるのが
気持ちよかった(笑)」

この3人の友だちは、
吉田さんの「知らない世界」を教えてくれた。
一人は音楽に詳しく、一人は映画に詳しく、
一人は幕末などの歴史にむちゃくちゃ詳しい、
といったように、
それぞれ、フィールドがあった。
彼等は、吉田さんに
「知らない世界の扉を開けてくれた」のだった。
吉田さんは、この出会いをきっかけに、
大学に行くようになった。


ドナドナ。

入学から4年が経つと、
就職するか、先生になるか、の道を選ばなければならなくなった。
しかし吉田さんは、それを選びかねていた。
自分が社会に出て働く、という状況が
どうしても想像できなかったのだ。

先生にはなりたくない。
企業への就職もしたくない。
フリーターも嫌だ。
そんな、袋小路にさしかかっていた吉田さんが
何気なく大学の掲示板を眺めていると
一枚の張り紙が目に飛び込んできた。
「タイで日本語の先生をしませんか」。

日本語教師の資格は不要、
タイで最大2年間、大学生に日本語を教える
という仕事なのだった。
タイは観光業が盛んで、日本語を学びたい学生が多いらしい。
吉田さんは
「これや!」
と、とびついた。
先生でも、会社員でも、フリーターでもない道が
ここにぽっかり、見つかったのだ。
とりあえず一旦、日本を出てみよう。

「行ってみると、
僕と同じ年齢の、関学とかを出てる学生たちが10人くらいいて、
その人達と一緒に、バンコクで1カ月研修を受けました。
そのあと1週間だけ、日本語の教え方を学んで、
それから、全員がある場所に集められました。
各地の大学の先生が来ていて、
『ウチはこの人もらうわ』『こっちはこの人に来てもらう』
みたいな感じで、ひとりひとり選ばれて、
まあ、ドナドナされたわけです(笑)
そのままバスに乗せられて、10時間くらい走って着いた
ウドンターニーという場所が、赴任先でした」

ウドンターニーはタイ東北の農村で、
ベトナム戦争の時、米軍の基地が置かれていた。
そのため、一時は経済的に栄え、大学も置かれたが、
今では人々は皆、出稼ぎに出てしまい、
吉田さんが見た風景は、かなり寂れたものだった。
大学はあるけど、なんにもない。
吉田さんは強烈な不安に襲われた。
吉田さんを「ドナドナ」した若いお姉さんは、
大学の英語科で働いているスタッフだった。
バスから降りると、お姉さんに
「お腹減ってる?」
と聞かれたので
「ハイ」
と頷くと、
お姉さんとお姉さんの彼氏と3人でごはんを食べることになった。

着いた次の日から、学校で日本語を教える日々が始まった。
なにしろ吉田さんだって大学を出たばかりなのだから
学生たちと年がほとんど変わらない。
教室の扉をがらっと開けた瞬間、
「キャー!」と黄色い声が上がった。
人気者になってしまったのである。
吉田さんはこの件について
「日本人というブランドですね」
と語ったが、絶対にそれだけではなかったはずだ。
吉田さんは、私の目から見て
完全に「モテるタイプ」である(当社比)。

吉田さんが受け持った学生たちは、40人中35人までが女性で
残る5人の内3人はトランスジェンダーだった。
毎日のように、学生から
「先生、ごはんいこう!」「ピクニックいこう!」
と誘われてでかける、というモテモテ生活が続いた。
日々、日本語を教え、学生と触れあううち、
気持ちに変化が起こった。

「それまで先生になりたいと思ったことはなかったのに、
1年間教えてみたら、
人にものを教えるのって楽しい、
自分、先生向いてるんちゃうか、
と思えるようになったんです。
それで、日本に帰って先生しようかな、と思いました」

しかし、日本に帰るとしても、
どこで先生をしようか。
出身地の宮崎に帰る気持ちにはなれない。
滋賀もちょっとちがう。
そのとき、脳裏に浮かんだのが、京都だった。
滋賀大にいたとき、時々あそびに来ていた京都は、
「いいところだな」というイメージがあった。
そこで、吉田さんは帰国し、
京都で講師からはじめた。
ここで晴れて(?)
小学校の先生になったのだった。

最初に赴任したのは、桂の川岡小学校だった。
赴任が決まると、とにかく通勤時間が短いほうがいい、と思い、
学区内にアパートを借りた。
すると、すぐに児童に住処がバレて
土日になると子どもの襲撃を受けるようになった。
「先生、いんのやろ!」
「わかってんで!」
「ぜったいいんで!」
ドアノブをガチャガチャガチャガチャされ、ノブは無残に破壊された。
アパートの古さから
「吉田先生はホーンテッドマンションに住んでいる」
という噂が広まり、
保護者にも「吉田先生はお金ナイ」という認識が定着した。
夜8時頃、「コンコン」とノックされてドアを開くと子どもが立っており
「これ、お母さんが吉田先生に持って行けって」
手渡されたのは、ちらし寿司や蟹クリームコロッケなど、
心のこもった食料であった。
「なぜか、すごい心配されている......大丈夫なのに......」
と思ったが、とにかく、
地域ぐるみで「吉田先生」は大事にされたのだった。

そんな2年間の講師生活を経て、
採用試験を受け、転勤が決まった。
赴任したのは、一クラス12人くらいの、
本当に小さな山の学校だった。


   

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石井ゆかり(いしい・ゆかり)

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、独特の文体で老若男女を問わず人気を集める。著書に『12星座シリーズ』(WAVE出版)、『愛する人に』(幻冬舎)、『月のとびら』(阪急コミュニケーションズ)、『星の交差点』(イースト・プレス)など多数。

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