石井ゆかりの闇鍋インタビュー

第7回 吉田さん・その2

2014.10.21更新

「は? つまらん!」

「で、2010年の3月までそこで先生をして、
2010年4月、写真家になりました。
29才のときですね」

え?
今なんておっしゃいました?

私は一瞬、耳を疑った。
話が急すぎる。
っていうか、ここまでにカメラの話なんか、出てきたっけ。
私は思わずメモしていたノートを繰った。
ナイ。一切無い。

ひとしきりツッコんでから、改めて
どうしてそんなことになったんでしょう、と聞いてみた。
なんと、きっかけは、奥さんとの会話だった。

吉田さんは26才の時、
3つ年下で同じく小学校の先生をしている奥さんと結婚した。
教員の研修の時、同期として出会った。
小学校の先生になる仲間たちの中で、
彼女だけがどこか「ちがう」雰囲気を醸し出していた。
声をかけると、すぐに意気投合した。
それで、出会ってまもなく、結婚を決めた。
結婚して2年、子どもにも恵まれた。

2009年頃、奥さんがふと、吉田さんに言った。
「この仕事、ずっと続けるつもりなん?」
吉田さんは応えた。
「もちろん続けるやん」
すると奥さんは
「は? つまらん!」
と言い放った。
予想外の言葉に、吉田さんは当然、びっくりした。

奥さんの言いたいことは、こうだった。

今、2人とも学校の先生である。
生活に困ることもないし、子どもも一人いるし、
言ってみれば、何の不自由もなく、
定年まであと30年、暮らしていける。
それは、教えていれば毎年色々あるけれど、
だいたい、毎年やることはわかっている。
つまり、この先30年、
どんなことが起こるのか、
既にだいたい、わかってしまっているのである。
それは、どうも、
つまらなすぎるではないか。
そんなつまらない道のりを、
2人とも歩いて行く必要はない。
何か自分なりの道を自分の手で切りひらき、
その証みたいなものを残せるなら、
そのほうがずっといいではないか。
子どもにも、そういう姿を見せてやるのが、
大人のやることではないか。
30年間、先生を勤め上げるのも大事だけれど、
とりあえず私は安定の道を行くから
貴方はイバラの道を行きなさい。

吉田さんの奥さんは、そう言ったのだった。

当時28才の吉田さんはこれを聞いて
「え?????」
と、頭の中がハテナでいっぱいになった。
しかし、一晩考えた。
たしかに、妻の言う通りかもしれない。
何かはじめるとしたら、30歳の手前の、今しか無い。

次の日、吉田さんは
「じゃあ、やめよっか!」
と言った。
「ただ! なにしたらええか、わからん!」
すると奥さんは
「写真やれば」
と言った。
「は?????」
「やってたやん」
たしかに、やっていた。
しかしそれは、遙か昔のハナシだった。
大学生の頃、一人だけでカメラ同好会みたいなことをしていたが
それっきり、ほっぽりだしてあった。

しかし、これが天命というものなのか、
吉田さんは奥さんの言うとおり、
写真家になることに決めた。
1年間、頑張ってお金を貯めて、
春、キッパリと先生を辞めた。
そのとき受け持っていた子どもたちはまだ1年生で
2年生も当然、吉田さんが担任だと信じていた。
しかし、彼等の前で吉田さんは言い放った。
「先生は、明日から、先生じゃなくなります」
子どもたちは、ポカーンとなった。
かわいい子どもたちを置いて去るのは、
吉田さんも、本当に切なかった。
しかし。
その翌日から、吉田さんは「先生」ではなく
「写真家」への道を一歩、踏み出したのであった。


カベを超えて進む。

晴れて(?)これで、「先生」ではなくなったが、
今度はどうやって「写真家」になったらよいのだろう。
吉田さんは考えた。
知り合いもいないし、仕事の伝手も当然、ナイ。

一般に、写真家になる道は、
プロのカメラマンの弟子になるか、
専門学校に通うのが普通である。
しかし、そんな時間もお金も無い。
そのとき、吉田さんはタイで過ごした一年を思い出した。
せっかくタイに一年いたのだし、
海外に行って撮りたい!
と思った。

その頃偶然、図書館で一冊のルポルタージュに出会い、
著者に連絡を取ってみた。
すると、タイのミャンマー人難民キャンプに潜入する、
伝手を紹介してもらえた。
相手はNGOの職員みたいなポジションの人物で、
日本に10年ほど住んだことのある、ミャンマー人だった。
難民キャンプにこっそり入れてもらい、
可能な限り写真を撮った。
このとき、現地の人からは
「私たちの現状を、外の世界で、
どんな形でもいいから知らせてほしい!」
と、何度も何度も言われた。
胸をえぐるような激しさで訴えかけられた。

そこで吉田さんは、写真家としての「カベ」に突き当たった。
自分は、ジャーナリスティックな写真を撮りたいのだろうか?
この人達の切なる叫びに応えることが、
自分にできるだろうか。
そもそも、それは自分が目指している仕事だろうか?
決して、そうではなかった。
吉田さんは、ジャーナリストになりたいわけではなかった。
では、何が撮りたいのだろう?

このカベを乗り越えるにはどうしたらいいのか。
考えた末、自分なりに答えを出した。
「そうだ、インド行こう」。

ありとあらゆる写真家が、
一度はインドを撮っている。
まるで通過儀礼(イニシエーション)のように、
写真家なら一度は通らなければならない道、
のようなものが、インドだった。
自分もまた、インドでカベを超えられるのではないか。
しかし、列車やバスの旅だと、
多くの写真家と同じようなルート、風景にならざるをえない。
どうしたらいいだろう。

吉田さんは、京都市内、
河原町丸太町の角にある自転車屋さんエイリンに赴いた。
そして言い放った。
「インド行くんですが、自転車ください」
「え?????」
店員さんもびっくりのインド・ツーリングである。
自転車ならば、他の写真家とはちがうルートで、
独自の写真が撮れるはずだ、と考えたのだ。
話をするうち、
だんだん自転車屋さんの店員さんも事情が飲み込めてきて、
パンクやチェーンが切れた時の応急処置を教えてくれたりした。

デリーからムンバイへと下っていく、2カ月の旅。
一番暑い8月から10月、吉田さんはインドを自転車で走った。
「何か見つけなきゃ」という焦りに似た気持ちでいっぱいだった。
行く前に地図を買ったが、
その地図がひどくイイカゲンであることがすぐにわかった。
事前にグーグルマップの航空写真を継ぎ合わせて、
ルートに併せて手製の地図を作っておいたが、
あまり役には立たなかった。
方位磁石とゆるい地図とを頼りに進む旅は
まったく予定通りにはいかなかったが、
2カ月間死ぬ思いをして、
なんとかムンバイにたどり着くことができた。
帰国して、吉田さんは、達成感にどっぷりひたっていた。
「やりきった!」という充実感にあふれていた。
この充実感、達成感は、次第に
「燃え尽き症候群」のような症状に繋がっていった。
何もやる気が起きなくて、毎日プラプラしているような、
そんな生活になってしまった。

帰国後のこの状態に
さすがに、奥さんも気がついた。
「最近あんた、なにしてんの」
からはじまり、
「私が毎日汗水流して働いてるのに、なにしてんねん!」
と、長々叱責をくらった。そしてとどめに
「こんな男を選んだ自分が情けないわ!」
あらゆる罵詈雑言の中でも、これが一番こたえた。
この一言は忘れられません、と吉田さんは苦笑いした。

奥さんの諫言に
「やばい!」
と思った吉田さんは、
インドで撮ってきた写真の中から作品を選び、
エプソンの公募展のコンテストに応募した。
すると、見事に公募展を勝ちとった。
個展ができることになったのだ。
この成功を経て、次に、チベットに赴いた。
チベットで1カ月半撮影すると、
今度は出版社に売り込みに行ってみた。
作品は雑誌掲載にこぎ着け、
そこから色々な雑誌に採りあげてもらったりして、
2011年くらいになると、
自分の写真の世界がかなり、広がってきたな、
ということを感じた。
仕事が軌道に乗った、という感触だろう。
写真家になろう、と思ってから、
わずか2年ほど。
吉田さんは本当に、写真家になったのだった。


同じ土俵で戦うこと。

チベットから帰ってきた頃のある日、奥さんと一緒に
アメリカの有名な写真家のWebサイトを見たことがあった。
奥さんはその作品について、
写真の可能性に驚いた、と言った。
「写真でこんなことできるんやね!
人の心をこんなに、うごかせるもんなんや!」
と、感動していた。

それからしばらくして、
吉田さんはチベットで撮った写真の中から、
自分なりに「いい写真が撮れたなー」と思えたものを
奥さんに見せた。
すると。
「1カ月、あんた、なにしてきてん!
どっかで見たことあるようなのばっかり撮って!
あのアメリカの写真家の人とぜんぜん、
比べものにならんやんか、
あの人がここ(頭上に手をかざす)なら
あんたはこのへん(畳みの上1センチ)やで」
吉田さんは抗弁した。
「いや、あの人は何十年と活動してきた、
世界的に巨匠と認められるような人で、
比べるような相手と違うやろ!」
しかし、奥さんは意に介さなかった。
「は? 作品を作るということでは、同じ土俵やろ、
そこでやらな、意味ないやん!」

吉田さんは、何も言えなくなった。
このときばかりは、しばらく黙り込んで、
ずっと「ぶーっとしていた」。
拗ねるのとふさぎ込むの間くらいの感じだろうか。
たしかに、
今いる位置だけでずっとやっていても、
しょうがないのだ。
売り込みに行けば、採用になるけれど、
そこで満足してしまったら、そこまでになってしまう。
自分の作品を作り、自分の作品を売る。
自分はそこからスタートしている。
奥さんの言葉は、きつかったけれど
今まで何度もそうだったように
吉田さんの心を奮い立たせる起爆剤となった。

私は感心のあまり、ため息をついた。
「吉田さんの奥さんは、神ですか」
吉田さんは笑った。

「ひところは、ケツをバンバン叩かれてました。
あんたは少々のことではへこまへんから、と言って。
僕はどうも、鈍感なんですね。
普通の人がこんなん言われたら、死んでんで、って言われました(笑)。
でも、このところ何も言わなくなったんです。
で、なんで? と聞いたら、
『もう私が何か言うステージじゃなくなった、後は自分で考えて』
って言われました」


「働く」ということ。

今、吉田さんがテーマにしているのは「働く」ことだ。
最初に賞をもらった、インドでの作品は、
更紗職人の写真のシリーズだった。
そのとき、
「『働く』って、なんて美しいことなんだろう」と思った。
それで、今度はバングラディシュに行き、
皮なめし工場やレンガ職人たちを撮影した。
撮影しながら、
「『働く』って、なんだろう?」
という思いが強く濃くなっていった。

吉田さん自身は、
学生時代、バイトというものをしたことがなかった。
仕送りと奨学金で生活できていたし、
そもそも「働く」ことに対して、極度に怠惰だった。
写真家になってからの数年の中で、
撮影旅行の費用を作るために、初めてバイトした。
お麩やはんぺんをつくる工場に短期で入り、
そこでもけっこう、可愛がってもらったりした。

「僕自身、働くということは、一体何だろう、と考えるんです。
僕の両親は中華料理屋をやっていて、
子どもの頃から毎日、
火と汗とお客さんと格闘している両親の背中を
ずっと見て育ちました。
バングラディシュで、職人さんの働く姿をみていると
自然に、子どもの頃の風景を想起するんです」

今の日本では、働く姿と言えば、
スーツ姿のオフィスワークを連想する人が多いだろう。
CMなどでも「働く人」といえば、
いわゆる「サラリーマン」の姿で描写されるケースが圧倒的に多い。
自営業者が多かった昔とは違い、
子供が親の働く姿を目の当たりにする機会は少ない。

「働く、っていうことが見えにくくなっていると思います、
体感的に掴みづらい。
でも、インドやバングラディシュのようなところにいると、
大きなレンガを担いだりする、働く人の姿が、そのままに見えます。
根源的に、働くということは、
昼間一生懸命体を動かして、夜にはお茶飲んでゆっくりして、
という、そういうことなんじゃないかと思えるんです。
それを僕自身も感じたい、というのがあります」

「書店に行って『ビジネス書』のような棚を見れば、
いかにうまく人生を生きるか、みたいな本が多い。
でも、そうじゃなくて、
人間というのは、そもそも、働く動物だと思うんですね。
働くから、人間なんじゃないか。
生きるために働く人もいるし、
やりたいことのために働く人もいる。
でも、結局、人間というのは、
働く、というところに
根っこがあるんじゃないかと思うんです」

私はこれを聞いて、自分の就職活動のときのことを思い出した。
ある企業の面接で
「貴方は、どうして働こうと思ったのですか?」
と聞かれたのだ。
私は、変なことを聞かれるなあ、と思いながら答えた。
「うちは貧乏ですし、食べていくには、働かないわけにはいきません」
すると、面接官は困ったように
「いや、そうじゃなくて、貴方の自己実現とか、やりたいこととか......」
と、言葉を濁しつつ苦笑いしたのだった。

たぶん、私は吉田さんの見たような、
レンガを背負って働くような「働く」シーンしか想像できなかったんだろう。
10代の頃、家業を手伝わされたこともあって、
仕事とは否応なくやらされるものだ、という観念もあったかもしれない。
仕事を選べるとか、仕事を創れるとか、そういう発想がなかった。
就職活動のマニュアル本のようなものをちょっと読めばすぐわかるようなことを
私はなにひとつ、事前に調べていなかった。
そのやりとりが原因かどうかはわからないが、結局、落とされた。

でも、私の心の中にはうっすらと、
ふてくされたような反論が今も、残っている。
「働くのは、食べていくため。それがなんでいけないのか?」
私はほんとに一生懸命働くつもりだったのだ。
「リア王」のコーデリアのような気分だった。


    

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石井ゆかり(いしい・ゆかり)

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、独特の文体で老若男女を問わず人気を集める。著書に『12星座シリーズ』(WAVE出版)、『愛する人に』(幻冬舎)、『月のとびら』(阪急コミュニケーションズ)、『星の交差点』(イースト・プレス)など多数。

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