石井ゆかりの闇鍋インタビュー

第9回 脱線編 阿藤さん・その1

2014.12.15更新

相手が誰だか知らないままに話を聞きに行く
「闇鍋インタビュー」だが、
この企画は、実は私のブログでの企画、
「ロードムービー」シリーズに端を発している。
詳細はこちらをお読みいただければと思うのだが、
要は、私が自分のブログ上で
「石井ゆかりに話を聞かせてやってもよいという方がいらっしゃいましたら、
ぜひ、お話を聞かせて下さい! 記事にします!」
と募集をかけて、それに応募してくださった方の話を聞き、
インタビュー記事にする
というのが「ロードムービー」シリーズだった。

その際、お話をして下さった方の一人が
劇作家の阿藤智恵さんだった。
私は文章を書いて生活しているが
阿藤さんも、ごく広義には、文筆をもって生きている。
ゆえに、この回はいつも以上に気合いが入っていた。
彼女のお話を聞いたのが2007年。
あれから早くも、7年が経過している。

インタビューの後、阿藤さんはときどき、
お芝居の案内やハガキなどを送ってくださった。
時折ふと、チラシにひとこと添えられた封書が届くと
とてもあたたかな気持ちになった。
いつかまた、もう一度インタビューをしてみたい
と思っていたら、
阿藤さんもそんなことを思って下さっていたらしい。
カードとハガキのやりとりから、
このほど「再会」が叶うことになった。

この「闇鍋」のプロローグにも書いたとおり、
私は、人に合うのが苦手なのである。
「人に会う」ことが苦手
と言いつつ人に会うなんて、誠に失礼なことである。
「自分は人見知りだとか予防線を張るやつは卑怯で無責任だ」
との意見もしばしば目にする。
まことに、もっともなことだ。
会うのが嫌なら会わなければいいのである。

しかし、人間は決して、単色ではない。
自分の中に何人もの自分がいて
それぞれみんな、意見や思いがちがう。
すごくやりたいけど、でも、ものすごくやりたくない
ということがありえるのを
体験したことがあるひとも少なくないはずだ。
心の中に一点の曇も無い状態で行動を起こす、ということのほうが
稀であるような気がする。

基本的に人に会うのが苦手なのに、
こうやってインタビューをしたり、
時には100人、200人といった聞き手を前にしてしゃべることもある。
この矛盾がずっと、自分のなかでギシギシみしみしと音を立てていた。
実際、人に会ってお話を聞くのは楽しいし、
それが「書く」ということに直結する。
得難い取材の機会であり、勉強の機会であり、
刺激を受け取れる素晴らしいチャンスなのである。
人前でお話するときにも、めちゃめちゃ緊張する一方で、
本に書いてもなかなか伝わらなかったことがすっと伝わったり、
ダイレクトなリアクションを受け取れたりする面白さがある。

それはそうなのだが、
なぜか「それだから、会うのがいいのだ」というふうに
納得しきれないところがある。
わだかまり、とでもいうのか、
どうしても腑に落ちないのだ。
書いた文章を読んでもらうのと、目の前で話を聞いてもらうことのあいだに
決定的な違いがあるとしたら、なんだろう。
手紙を出すのと、相手に会うのとでは
なにがどう「ちがう」と言えるのだろう。
どうして、イベント会場にお客様が来てくださるのだろう。
そこでは何が求められていて
私は何ができるのだろう。

阿藤さんに会いに行くとき、
私は漠然とそのことを考え続けていた。
阿藤さんは、演劇の世界の人である。
演劇は「劇場に見に行く」ことが大前提である。
テレビドラマを見ることと
そのドラマに出ていた俳優さんが舞台で演劇をするのを見ること、
その2つのことのあいだには、
どんな違いがあるんだろう。
たぶんベンヤミンが語った「アウラ」みたいなことだ、
と言ってしまえばそれまでなのだが
私はそこで納得したくない、といまは思っていた。
阿藤さんなら、それをなんて言うだろう。
しきりに、それを思った。


まるごと。

約束した新宿の喫茶店に着くと、
阿藤さんは先に着いて、ごはんを食べていた。
30分時間を間違えて、先に着いてしまっていた、というのだ。
彼女が食べ終わってからインタビューを始めようと思い、
ちょっと雑談し始めたのだが、
気がつけば、本題に入ってしまっていた。

「『会う』って、どういうことなんでしょうね。
私、『会う』って、なんだかよくわからないんです、
人が一人でいるのと、他の誰かといるということのちがいというか。
たとえば、カルチャーセンターさんとかでお話しするときも
皆さんがどうして、お金を払って来てくださるのか、
正直、よくわかってないんです。
まったく失礼な話なんですが。。。」

もちろん、いつも
「聞き手はこういうことを知りたいんじゃないか」と想像し、
必死に準備をしてからお話ししている。
だけど、本当にそれでいいのか、いつも、こころもとない。
何が求められているのだろう。
どうして、私なんぞに会いに来てくださるんだろう。

私がそういうことを言うと、阿藤さんは驚いたような声を上げた。

「えー、だって、ファンだったら、会いたいっておもうでしょう!」

「いや、それが、どうも、私は、わからないんです。
私は話すの上手くないし、
本だったら、しゃべりよりは内容が整理されてるし、
そっちのほうがずっといいんじゃないかと思ったり......」

「ええ! だって、好きな作家がいま同じニュースを見てる! っていうだけで
すごく嬉しくて、支えになりますよ私は。
ちょっとまえにヴォネガットが死んだときなんか、
もうニュースを見ても、それをヴォネガットは見てないんだ!
と思うと、ショックで仕方が無いですよ。
ついこないだ赤瀬川源平さんが亡くなったときも辛かった、
同じ時間を生きていて、同じニュースに接して、
ということは、私にはすごく大事です。
いまはもう、アン・タイラーとジョン・アーヴィングが生きてて、
私と同じニュースを見てる! 
って思うのだけが支えかも!(笑)」

阿藤さんの「同時」の時空ってどれだけ広いんだ......。
私は呆然とした。

「一緒にいる時間って、そこだけ、
始めと終わりがぴったりと一致するでしょう。
他の時間は伸び縮みするけど、
誰かと一緒にいる時間は、始まりと終わりが
相手のその時間の始まりと終わりと、
そこだけ、ぴったり一致するんです。
ある長さの、1つの時間の管を、
そこだけ、一緒に通って行くような感じです」

なるほど。
これは、面白い。
時間の最初と最後がぴたっと合う、という発想はなかった。
確かに、「会っている時間」は
お互いの時間のスケールが一致するような
不思議な状態になる。

しかし私は、今日は食い下がろうと思った。

「阿藤さん、私は、今日は、ひねくれた14歳みたいな感じで
ぐずぐずゴネますよ」

阿藤さんは笑った。

「いいですよ! おもしろい!(笑)」

そこで、私は言ってみた。

「私なら、たとえば本だったら、
作家自身に会うより、その本を読んでいる方が、
なんというか、作家にちゃんと会ってるような気がします。
作家本人には会いたくないような気もしたり」

「えー、でも、本よりも、
生きている人間のヴォネガットのほうが、
まるごとのヴォネガット、っていう感じがするでしょう」

「まるごと、がいいんですか」

「まるごと、がいいと思う」

まるごと。
でも、まるごとだと、たとえば豚の丸焼きや焼き魚のように
食べられない部分もたくさんあるような気がする。
食べられない部分は、削いだ方が、親切なんじゃないかなあ、、
と思った。

「たしかに、私も舞台を作るときは、
すごく考えて、そぎ落として、
カンペキなものができるように努力します、
それは、最善を尽くしてやるし、
とても大事なことです。
それがなければ絶対にいけない。
でも、私は、基本的に、
人をすごく信頼してるんだと思います。
人の理解力を信じている。
理解する脳を信じている、というか。
たとえば、芝居を見て、
言葉では『なんだかわかんなかった』って言う人でも、
脳は解ってると思う。
脳とか、身体とかでは、
『いま、自分はすごいものを見たんだ』
って、受けとってると思うんです」


   

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石井ゆかり(いしい・ゆかり)

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、独特の文体で老若男女を問わず人気を集める。著書に『12星座シリーズ』(WAVE出版)、『愛する人に』(幻冬舎)、『月のとびら』(阪急コミュニケーションズ)、『星の交差点』(イースト・プレス)など多数。

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