石井ゆかりの闇鍋インタビュー

第12回 中川さん・その1

2015.02.23更新

インタビューの場に行くまで誰にインタビューするのかわからない、
狂乱の企画「闇鍋インタビュー」第11回目は、
川端丸太町の喫茶店source.(ソース)で行われた。
雨混じりの夕方、丸太町橋を渡り、
少し早めに現地に到着したので本を読んでいると
ほどなく、ミシマ社の新居さんと、今回のインタビュイーが現れた。

帽子をかぶり、緑色のフレームの眼鏡をかけた、
私と同年代くらいとおぼしき男性である。
私はファッションにはとんと疎いのだが、一見して
「なんか、おしゃれさんだぞ・・・!」
と思った。
落ち着いた雰囲気ながら、実にセンスが良い感じがするのである。
ただ守るための服装ではない。攻めているところがある。
「これは、ファッション系かアート系の方かもしれない・・・」
と、見た目で判断した(良い子の皆は、マネしないでね!)。

この直観は(めずらしく)当たった。
「どういうふうにはじめればいいんでしょうかね・・・」
と戸惑われたところで、
「最初から名刺を出される方もいらっしゃいます!」
と、半ば促すズルい作戦に出たところ、
お名刺を二枚、出してくださった。
一枚目には
「イラストレーターと僧侶 中川学」とあり
二枚目には
「瑞泉寺 住職 中川龍学」
と記されていた。
イラストレーター、で、お坊さんなのか!!

ご住職、のほうの名刺の下に、
興味深い一行が書かれていた。

「豊臣秀次公ご一族の菩提寺」

豊臣秀次とは、太閤秀吉の実の甥で、
悲劇の人である。
のちに秀吉の養子になって跡継ぎのポジションに置かれるのだが、
淀君が秀吉の子どもを生んだためにジャマにされたあげく讒訴され、
本人は切腹、一族もろとも皆殺しになってしまうのだ。

現在、瑞泉寺がある三条木屋町、高瀬川沿いの場所は、
当時、鴨川の中州だった。
高野山で切腹した秀次の首は石で造られた櫃に入れられ、
三条大橋から見下ろせる、この中州に築かれた塚に晒された。
古くから鴨川の河原は刑場で、
上流の三条あたりは貴人の処刑、
五条や七条では民間の犯罪者の処刑が行われたらしい。
江戸時代初期、地元の豪商角倉了以が高瀬川を開いたとき、
ちょうど、塚のあったあたりに工事が及んだ。
もともと、秀次一族に深く同情していた了以は、
浄土宗西山派の僧と相談して、
この場所に瑞泉寺を建立したのだった。

三条木屋町といえば、世界中からの観光客で賑わう観光地だ。
誰もが修学旅行で一度は訪れたことがあるだろう場所である。
三条から四条にかけての鴨川沿いには、
晴れた休日など、たくさんのカップルが並んで座る。
ストリートライブやイベントなど、若々しく賑やかなところなのだが、
かつて、ここで多くの罪人や、罪亡くして罪を問われた人々が
命を落としたのだ。
そして、もっと昔には、
死骸や死を前にした人々が「捨てられた」場所でもあったという。

死は、一般に忌み嫌われる。
でも、京都では、どうも、そうでもないような気もする。
そこら中にお寺があり、小さなお堂がある。
街角には、古い時代を生きて既に死んだ人々の「跡」が
そこここに記されている。
歴史上の人物に対しても「○○はんが」と、親しく呼びかける。
日本中から今も、坂本龍馬や新撰組に会いに来る人々がいる。
この土地では、過去の死は、現在の生の続きである。
死と生が、どうも、分断されていないのだ。


きゅうくつ。

中川さんは東京で生まれ、3歳の時に京都に来た。
東京で働き、家庭を持ったお父さんが
瑞泉寺を嗣ぐために帰京したのである。
お母さんも関東出身の方で、
家の中では関西弁を使わない。
3歳という幼い頃に京都に来ていながらも、
なんとなく違和感を感じ続けていた。

「京都って、なんとなく、堅苦しく感じてましたよね。
どっかで誰かが必ず見てる感じがして。
特にイジメにあった覚えもないんですが、
『ここはオレのいる場所じゃない』
みたいに思っていて(笑)
言葉は、特に大阪だとそうなんですが、
仕事で取材するとき、つい関東弁で話すと、
社長さんとかにすごくおこられるんです、
『君はなんや!!』みたいに(笑)
子どもの時も、ケンカになると、
僕はなぜか、関東弁になるんですよ。
そうすると、言い合いのタイミングが合わないんです、
だからもう、ケンカにならない。
たとえば、長なわとびに入っていけない、みたいな感じです。
議論ができないんです、だから、弱かった(笑)
いづらい街やな、と思ってました」

それでも、京都のお寺の息子である。
小学四年生の時に得度式を受けて「小坊(こぼん)さん」になり、
その後、本山の紅葉で有名な永観堂で、
高校二年の春に加行を受け、佛教大在学中に宗学院という
一夏を過ごす勉強会に3年参加し、僧侶の資格を得た。
一見スムーズな道のりだったようだが、
中川さんにとって、お寺は窮屈でしかたがなかった。

「お寺は窮屈で、なんとか抜け出したくて、
大学出た後はサラリーマンになって、広告の仕事をしました。
もともと、絵を描くくらいしか能がないので、漫画家にあこがれて、
大学でもマンガ研究会にいたりしたんですが、
物語を考えないといけないのが難しくて、
これは、漫画家はムリだなと思って、まあ、挫折したんです。
その頃は、ちょうど、広告とかの業界がときめいていた時代で、
広告かっこいいな、というのと、
絵に関係あるかな? と思ってデザイナーになりたかったんですね。
幸い、リクルートが入れてくれたので、広告業界で6年、
サラリーマンをやりました」

しかし、入社してみると、
配属されたのはデザイナーではなく、
コピーライターというポジションだった。

「絵やデザインじゃなく、文章ばっかり書かされてました。
その頃は、『いっぺん、絵を捨てなきゃな』と思って、
忙しくて出来ないっていうこともあったんですが、
絵が描けなくなった時期がありました。
それが、だんだんディレクター的な仕事に変わっていって、
ライターやイラストレーターに仕事を発注する側になったんです。
その頃、『B-ing』とか、『とらばーゆ』っていう、
就職情報誌の担当だったんですが、
ああいう雑誌って、小さいカットのイラストが、
たくさん必要になります。
でも、プロのイラストレーターさんに発注すると、
時間がかかるんですよ、最低でも3日とかとらないといけないんです。
それが、自分で描けば5分くらいで描けちゃうんですね。
それで、自分で描く場面がどんどん増えていって、
最終的に、リクルートの外注のイラストレーターとして、
独立したわけです」

それが、19年前のことだった。

「今はネットがありますから、
原稿なんかもデータでやりとりできますが、
昔は紙の原稿を、新幹線便で送っていました。
就職情報誌って、週刊なんです。
毎週、必死で原稿やって、金曜日の夜に新幹線の最終便で〆切ギリギリに原稿を送ると、
もう、24時過ぎて日が変わってるんです。
そんな状態だと、皆たかぶってて眠れないので、
そのまんまカラオケ行って朝まで、みたいなことが、
毎週続いていたんですね。
そんなことをしてたので、さすがに、
心身共にすりへったような感じになりました」

「で、くたびれはてていたところに、
祖父の具合が悪くなったので『寺に戻ってこないか』と
声がかかったんです。
その頃、ちょうど長男が生まれたばっかりで、
やっぱり、子育ては広いところの方がいいかな、
ということもあって、
それで、寺に戻ることにしました。
というか、戻らざるを得なかった、という感じですね(笑)
お坊さんって、盆や正月とか、忙しい時もあるんですが、
普段はけっこう、ひまなんです(笑)
なので、お寺で留守番しながらイラストレーターをしたら、
それでやっていけるな、と」

窮屈な場所を抜け出したり、
そこで馴染んだり、また抜け出したりしながら、
中川さんは
「イラストレーターと、僧侶」
という、独自のポジションをつくってきたのだ。


   

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石井ゆかり(いしい・ゆかり)

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、独特の文体で老若男女を問わず人気を集める。著書に『12星座シリーズ』(WAVE出版)、『愛する人に』(幻冬舎)、『月のとびら』(阪急コミュニケーションズ)、『星の交差点』(イースト・プレス)など多数。

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