石井ゆかりの闇鍋インタビュー

第12回 中川さん・その2

2015.02.24更新

個性は、「ゆがみ」。

中川さんは、本の表紙のイラストを多く手がけている。
内田樹『ぼくの住まい論』(新潮文庫)の表紙には、
内田先生の合気道の道場「凱風館」を描いてほしい
とオーダーされた。

「そのとき、内田先生の人柄みたいなのが出ていたほうがいい、
と思いました。
それで、建物の形は写真を見てそのまま描くんですが、
内田先生らしき人が自分で玄関先を掃いていると、
内田先生らしいんじゃないかと考えて提案しました。
絵は、個性を出すものだと思われているけど、
それは、ちょっと違うと思います。
僕がやってるのはイラストレーションで、
アートとはちょっと違うんです。
本の装幀なんかは特に、
読む人に手に取りやすくなるようにする、という役目があります。
表紙の絵からすっと内容がイメージできないと、
手に取りにくくなります。
これは、広告を作るときに皆教えられることなんですけど、
ターゲット・セグメンテーション、といって、
どういう人たちに届けたいか、ということを
常に意識するんですね。
伝えるべきことが伝えるべき人に正確に伝わらなければならない、
というのが大事なので、
そこに、自分の個性って必要なのかと言うと、
本当は、僕の絵じゃなくてもいい、
くらいのものなんです。
無理矢理作った個性って、なにか、見苦しいもの、だと思うんです」

中川さんは、カバンのなかから何冊か本を取り出して、
絵を見せてくださった。
歴史ものの本が多く、ご本人も
「レトロな絵が好きです」とのことだった。
直線的で、色がハッキリしていて、
ゆがみが少ない絵だな、と思った。
なぜか「アノニムな感じがする」とも思った。
描き手の「名前」が感じられない。
匿名的なのだ。
それは、無個性、ということとはちょっとちがう。

「版画のようなムラがない、パキッとした絵が好きです、
なかなか、手描きじゃできないんですが、
illustrator(パソコン用ソフトウェア)だと、
それができるんです。
切り絵みたい、とも良く言われます。
展覧会とかやっていたとき、
おばちゃんたちが
『これ、切り絵に使ってもいいですか?』
って聞いてきたことがあります。
で、『いいですよ』って(笑)」

線と色がクッキリした中川さんの作品を、
切り絵の下絵としてつかおうということらしい。

「リクルートの下請けで、
小さいカットを山ほど描いていたんですが、
発注側から、イメージを指定されるんです。
『サザエさんっぽいOL』とか『ゴルゴ13ぽい営業マン』とか(笑)
それを、完全にサザエさんにしてしまったら、
マネになりますから、怒られます。
あくまで『っぽい』にとどめないといけない。
そうすると、サザエさんを構成するものはなにか、と、
分析してみるんですね。
あのアタマと、口と鼻と、みたいに
その絵柄を構成する要素を考えて、くみあわせると
見事に『それっぽいもの』ができます。
それで、なにっぽいものでも描けるようになったんですが、
逆に『中川さんの好きに描いてください』って言われると、
描けなくなってしまったんです。
『何でも描けるけど、何にも描けない』状態になったんです。
『自分の絵って、なんだろう』と、悩みました。
そこで、仲間とグループ展をやったり、個展をやったりして、
自分らしさというものをいろいろ考えたんですが、そのうち、だんだん
『個性って、要るのかな?』
と思い始めたんです。
そこで、illustratorというソフトを使い始めました」

「illustratorというソフトは、
没個性的なものしか描けないんです。
このソフトだけに頼って描いていると、
本当!に個性がなくなるんですよ(笑)
だからこそ、『個性とはなにか』が見えてくるんです。
たとえば、まっすぐな線を引くと、
ソフトだから、完全にまっすぐでゆがみのない線が引けます。
これは、なぜか、つめたい感じがするんですね。
まっすぐな線ですから、個性もない。
でも、ソフトでいっぱい点を打って、それをむすんで
わざとぎざぎざした線を描いて、引いてみると、
今度はあたたかい感じがします。個性的な感じがするんです。
イラストの注文を受けるとき、
『手描きっぽい、あったかい感じで』
と言われたら、
線をわざとずらしたり、太さを変えてムラを出したりします。
つまり、手描きって
『ちゃんと描けてない』
ってことなんです(笑)
『手描きであったかい』って、なに?
ということが、ソフトを使ってみるとわかるんです。
ゆがんだムラのある線ほど、個性的に見える。
個性というのは、ゆがみなんです。
人間が個性的だというのは、ゆがんでるということなんです。
だから、人として個性的になりたかったら、
人間的にゆがめばいいんです(笑)」

なるほど。
たしかに
「あの人はまっすぐな人だよね」
というのは、あまり個性的な感じがしない。

「ぼくは、マウスで描くんです、
タブレット(ペン状の入力デバイス、鉛筆で描く容量でパソコンの中に描ける道具)はつかわないです。
マウスで描くと、描きにくいです、
むりから、いがむんですよね、
いがむのが、味になる、みたいなところがあります。
他の人が描けない絵が描けるんです」

中川さんがイラストレーターを使い始めてしばらくして、
これは、と思ったものを、
雑誌イラストレーションの編集長さんに見せに行った。
すると
「この絵には、君がどこにもいないね!」
と言われた。
「そう言われて、
じゃあ、オレって何ですか?
って、禅問答みたいになりました(笑)」

「今、若いイラストレーターさんたちが集まって、
うちのお寺で月1回クロッキー部というのやっているんです、
絵の勉強会みたいなものです。
そこでも皆
『もっと個性を出さなきゃ』
みたいな話をしてるんですが、
僕は、『そんなもん、描いてたらそのうちでてくるから」と言うんです。
個性みたいなものを、
むりやりつくればつくるほど、
ヘンなものになっていくんですね。
むしろ、個性をなくしてって最後に残ってるものが、
なんというか、自分らしさ、なのでは、と思うんです」

この感じは、私も、とてもよくわかる。
20代の頃は「自分らしい文章」を
必死になって書こうとしていた。
それが、30代に入ってから、だんだん、
「一番プレーンで、誰が書いたかもわからないような、
本当に整理されて読みやすい文章を書きたい」
と思うようになった。
しかしこれは、やってみると、ものすごく難しい。
「らしいもの」を書こうとするより、遙かに難しい。
意識すればするほど、文章がごちゃごちゃになっていくのだ。
テンポ良く、論理的に、過不足なく、スッキリと。
自分で「これは、よく書けたな」と思えるものは、
面目ないが、実は、ほとんどない。
でも、そうしてごくごくプレーンに、
「らしさ」など欠片も残さないように!
と思って書いたものを読んだ方から
「これはまさに、ゆかり節ですね!」
などと言われたりすると、
ああ、私には自覚的にはわからないけれど
それが本当の、私らしさ、ということなのだろうな
と思えるようになった。

中川さんが見せてくださった作品の中に、
『絵本 化鳥』(国書刊行会)があった。
泉鏡花の小説を絵本として構築した面白い本だ。
これを開くと、ごく平面的な、クリアな絵柄なのに、
時間と空間の奥行きが驚くほどひろやかで、
くらっと吸い込まれるような怖さを感じる。
手すりのないビルの屋上のヘリに立って下を見下ろす感じに似ている。
光と影に彩られた虚空がそこにある。
こんな絵は、みたことがない、と思った。

個性を出そうとはしないけど、
個性が出るようには、する。
ゆがむ部分と、ゆがませない部分と。
浄土の教えは「自分の力で救われることができる」という「自力」を否定する。
自分の力で救われる、などというのは、傲慢なのだ。
阿弥陀仏という「他力」があるからこそ、
救いとってもらうことができる。
「個性を出す」というのは、言わば
浄土の教えの「自力」に重なる、ような気がする。


仏教を、信じますか?

私の生業は、「星占い」である。
星占いをやっているとかならず
「信じる・信じない」
という言葉が出てくる。
たとえば、編集者の方から
「私は占いは信じてないですし、読むこともないんですが、
石井さんのは文章として面白いので、読んでます。
で、原稿をお願いしたいんですが・・・」
みたいな感じで仕事の依頼が来る。
私自身は、星占いを「信じさせよう」と思うこともないし
自分でも「信じている」つもりはない。
でも、「信じてない」のに、
占いの記事を書いたりしていいのだろうか
というのは、ずっと抱え続けている、
慢性的な迷いなのである。

かたや、宗教もまた
「信じる・信じない」
という命題が厳然としてある。
お坊さん達は果たして、本気で
仏様を信じているのだろうか。
浄土の教えでは
「南無阿弥陀仏」
と唱える。
阿弥陀様の誓願により、
私たちはそう唱えるだけで
もっといえば、唱えようと思っただけで、
浄土に救いとられていけるのだ
という教えである(ごく大雑把に言えば)。
「南無阿弥陀仏と言えばかならず、救われる」
ということを、
中川さんは「信じて」いるのだろうか。
お坊さんは、教えを広めるのが仕事である。
もしかして
「信じていないけど広めている」
という、私みたいなのも、いるのだろうか。

私は、中川さんに
「中川さんは、仏教を、信じているのでしょうか」
と聞いてみた。
我ながらものすごく失礼な質問である。
むちゃくちゃである。

「そうですね、信じているというか、
小学生のときに、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を読んで、
お釈迦様がこう、蜘蛛の糸をさしのべますよね、カンダタに、
それで、カンダタが他の亡者を蹴落としたとき、
糸が切れて、
『お釈迦様はかなしそうなお顔をされたのであった。』
って
『救えよ!!』
って思いましたね、なんて薄情な......って(笑)
でも今は、それも含めて、よくわかるような気がします。
そこで助けちゃったら、やっぱり、
よくないのかもしれない、とか。
仏教って、人間をすごくつきはなしたところがあるんです。
それは、人間の可能性を信じているから、
ということがあるんじゃないかと思うんです。
だから、『悲しいお顔をされた』でおわる(笑)
常に試されている感じで、試練なんですが」

そういえば、子どもの頃から、私たちはそんなふうに、
仏教的な考え方に馴染んできている。
『かさこ地蔵』や『孫悟空』など、
いろんな童話や児童書で、仏様という存在に接してきている。
しかし、大人になってからは、
日本人の多くは「無宗教」だと自覚している。
お葬式や法事にも出たことがない、と言う人も、
現代では少なくないらしい。
私は中川さんに
「今の日本人の多くは、宗教は信じてない、と言いますよね。
でも、ご自身では、信じられる、ということでしょうか」
と聞いてみた。

「いや、日本人は十分、宗教的だと思いますけどね、
山に登りますし、川のそばはマイナスイオンがいいね、
なんていうのも、宗教的な感覚なんじゃないでしょうか。
日本人は、たぶん、心の底から宗教を体得しているので、
敢えて『○○教』とか言わないでいいんだろうと思います、
『あつくるしいじゃん』みたいな感じで(笑)
むしろ、なになに教、と言ってしまうと、
今は、嘘くさいんでしょうね。
クリスマスはキリスト教だし、お正月は神道だし、
というのができるのは、
心の底に、ゆるがない宗教心みたいなものがあるから、
そうやって、枝葉を伸ばせるんじゃないかと思います。
それが、西洋の人から
『日本は宗教がない』って言われてしまうと、
そうかな、と思ってしまうんじゃないですかねえ。
だって、マンガ読んでても、NARUTOとか、すごく宗教っぽいですよ。
ドラゴンボールとかも、神様が出てくるし(笑)
十分、宗教的だと思いますよ、......節操はないけど!(笑)」

「信じるかどうか、ということでは、
キリスト教の方がたいへんだろうなと思うところもあります。
キリスト教は、キリストが一度死んで復活した、
その『復活』を信じることからはじまるんで、
それは、力ワザだなと思います。
一度死んだものが生き返るというのは、
日常感覚からして、ないですよね、
でも、そこからはじめないといけない。
仏教はそんな難しいことは言ってないです、
いわば、昔の科学みたいなところがあります。
それが、だんだん哲学になり、
この世の成り立ち、みたいなところになっていく。
それは、信じるというよりも、
『そういうもんなんだな』くらいのことなんです。
仏教は学問なんでね」

(つづきます)

   

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石井ゆかり(いしい・ゆかり)

ライター。星占いの記事やエッセイなどを執筆、独特の文体で老若男女を問わず人気を集める。著書に『12星座シリーズ』(WAVE出版)、『愛する人に』(幻冬舎)、『月のとびら』(阪急コミュニケーションズ)、『星の交差点』(イースト・プレス)など多数。

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