読む女

第1回「夜道で」

2009.07.24更新

明日はお休みで、これといった予定もなかった夜、外に飲みに行こうかという話になった。
たまのことなので、うれしい。
気持ちが変わらないうちにと、あっという間に出かける仕度を整える。
玄関の鍵をかけ、真っ暗になった夜の中を、二人で足音だけさせて歩く。
少し風が吹いていて心地よい。
ザワザワと勢いのある木の葉の音がして、今朝洗濯したばかりの着ている紺色ワンピースの裾が翻り、はたはたと足にあたる。
こういう楽しい時は、とても伸びやかであるはずなのに、夜遅くに住宅街を歩いているので、自然と声は小さくなる。
「このまえから話してる例のクッションだけど、ついに明日買いに行きたいと思ってるの。一緒に行ってくれる?」
「いいよ。お店、遠いんだっけ?」
「すこし遠い」
「じゃあ、朝あのパン屋に寄ってそのまま行く?」
「うん、寄ってく」

Eという名のパン屋は、たくさん種類があって、ひとつずつ丁寧につくられているパンを売る、小さな町の店だ。
休日の朝にそこへ行くということは、遠出するということに繋がっているので、特別な気持ちのする店である。
外側の端っこがカリッとしたクリームパンがあり、夫はこれを好きでよく買う。
好きは味が好きなのであって、それだけのことだと思っていたが、ある日わたしが、いつもの通り夫に聞いたときのこと。
「クリームパン、買いますか?」
「うーん......買いません......。明日、休みじゃないからな」
 聞けば、休みの日の朝に食べるから、そして好きなカリッとしたところが、パンのほんの少しの部分だから、特別においしいのだそうだ。
なるほど、好きって、そういうことかと思った。
休日に、カリッとした少しの部分を食べる幸せを知っていて、それは誰に言うでもなく、ささやかな本人自身の幸せな出来ごと。
私は夫の顔をまじまじと見つめ、小さな声で、なかなか素敵な楽しみをお持ちなのね、と言った。

「ビールの最初の一口」
とにかく最初の一口だ。一口だって?口の前からもう始まっているじゃないか。まずは唇の上をあの金色の泡と、その泡で増幅された爽快感が通り過ぎ、やがて苦みで濾過された幸福がゆっくりと口の中に広がる。最初の一口なのに、いかにも長く感じられる!・・・と同時に、すでにわかっているのだ。一番おいしいところはもう終わった。・・・蜂蜜まがいの、冷えた太陽みたいな色を味わう。・・・ただみかけだけ威勢よくビールの杯を重ねたあげく、喜びを陰らせるだけ。それは苦い幸福、最初の一口を忘れるために飲むもの。
(フィリップ・ドレルム『ビールの最初の一口とその他のささやかな楽しみ』(早川書房)より)

この本には著者の、本当にささやかな「幸せを感じるとき」のことが書かれている。
抜粋した「ビールの最初の一口」や、「夜の高速道路」、「不意のお招き」、「巡回図書館」「万華鏡を覗きこむ」などなど、著者の心の弾みを味わえるのと同時に、自らの生活にも隠れている、小さな楽しみを見出すことのできる、喜びの結晶のような本だ。

夜道歩く私たちの話は、好きな時間についての話にうつった。
「わたしはね、葱や茗荷や生姜を刻んでる時が好き。これから食べるご飯の美味しい香りがする」
「食いしん坊だなぁー」
信号待ち。
「あと、コーヒー豆を挽いてもらってそれを持って歩いているとき」
青になる。
「今みたいに、長い長い夏の夜を歩いているとき」
「おぉ。詩人ですね」
「あと、クリームパンの端っこをかじったとき」
「それか」
「あと、タオルケットをあごに引っ掛けて眠ること」
「なにそれ」
「あの気持ちよさに勝るものはない」
「......」
目的の、威勢のいい居酒屋につき、ビールと枝豆、かつおのお刺身を注文する。
「このお店の人みたいに、大きなかけ声だすとき」
「そんなときあるの」
「ない」
とりとめのない話はいつまでも続いていく。

ささやかな楽しみ。
それらはきっと、ご機嫌のときにだけ掬い上げることのできる一瞬だ。
現実は、毎日小さなことで、ふうわり笑っていられないことだと思う。
けれど、ふうわり笑えるときを見つけたら、おおいにはしゃごうと思う。
こんな話をすることが、これからも時々あったらいいな。
今日みたいに、気持ちのよい夏の夜道なんかで。
冷えたビールを片手に、くだらん! などと言い合いながら。


おまけ
みなさんの楽しいときはどんなときでしょうか?
読む女』、KYOTO的からお引越させていただきました。
どこにでも居る夫婦の小さな暮しと、本の話です。
これからまた、どうぞよろしくお願いいたします。

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木村桃子(きむら・ももこ)

ある時は着付けの先生、ある時は書店員、ある時は川原でぼおっとしているひとりの主婦。

KYOTO的で、多くの女性から支持された「読む女」。ひきつづき本誌で連載。

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