読む女

第3回 芋ぐるい

2009.09.25更新

 じつに静かな朝4時、わたしは気をつけながら一人、サクリ、サクリと音を立てていた。台所で、さつま芋を乱切りにしている。切ったものは、しばらく水にさらしておくので、その間ヤカンに火をかけ、窓を開けに行き、深く呼吸をする。夫は出張でいないので、今朝は一人。となりが寒々としていて早く起きてしまった。朝ごはんは大学芋とコーヒー。

 朝刊を取りに外へ出ると、猫がこちらを見ている。お芋の匂いに誘われてきたのかい。小声で話しかけると、そうだと猫は言った。ように感じた。じゃあ少しお待ち、と言ったら、どこかへ走っていってしまった。おや、お芋はお嫌いだったかい。

 沸いたお湯を少しずつ注いでコーヒーを淹れる。今日のコーヒーは、コーヒー豆を売っているかたわら、隙を見ては豆の研究データをまとめている、ご近所の「コーヒー博士」のブレンドだ。もっとも、「コーヒー博士」とは、家で勝手に呼んでいるあだ名であるのだが。ある日母が博士に、「深い味がいいです」というなんとも大雑把な注文をしたところ、「ではこれはいかがでしょう」と言ってブレンドしてくれた。おいしくて気に入り、母が行っては色々とお願いをし、そのうち「いつもの」の一言で「深い味のブレンド、ただし家の母の」を出してくれるようになったのである。

 分けてもらったそれを、とろとろと注ぐ香りは心地よく眠気が襲う。一口ゆっくりいただくと、後味がこっくりとして、おいしいことに間違いなかった。それからさつま芋の水分を切って、素揚げにとりかかる。薄いクリーム色だった肌が、少しずつ濃い黄色になり、やがてきつね色に揚がるのを体を熱くしながらじっと見ていたら、部屋に良い風が通った。そのとき、たまには外で朝ごはんを食べようと思いついた。揚がったさつま芋に水あめをからめ、胡麻をたっぷりとまぶす。味見をしたら、カリカリのほくほく、上々のできばえだ。わたしは熱々の大学芋を包み、赤いポットにコーヒーを入れ、好きな文庫本をさっとつかみ、ブーツをはいた。

 公園までは、5分と少し。今日はいつも先客がいて中々座ることのできない、大きなくぬぎの木の下の特等席が空いている。腰かけて本を開く。

 私は一人で秋らしい日の斜めに射して木かげの一ぱいに拡がった庭の中へ出て行った。
寝不足の目には、その木かげに点々と落ちこぼれている日の光の工合が云いようもなく爽やかだった。私はもうすっかり葉の黄いろくなった楡の木の下のベンチに腰を下ろして、けさの寝覚めの重たい気分とはあまりにかけはなれた、そういうかがやかしい日和を何か心臓がどきどきするほど美しく感じながら、かわいそうなお前の起きてくるのを心待ちに待っていた。                (堀辰雄『菜穂子・楡の家』新潮文庫より)

 コーヒーを飲む。大学芋をもそもそと食していると、いつもここに座っておられると思われるおじいさんが近づいてきた。どきどきして、どこうかと思っていると「おはよう」と隣に腰かけてくれる。おはようございますと言うと、ここで鳥の声を何時間も聞いて朝をすごすのが好きなんだとおじいさんは言った。もうずっと、40年はそうしていると。40年。わたしは生まれてもいない。そんなときから毎朝そうしている人と、今朝突然ふれる不思議。それから大学芋を一緒に食べた。おじいさんが、「うまいな」と言ってくれた。

 さまざまな人が、他人からみたら少し狂っていると思うくらいの、愛や情熱を傾けられるものを生活の一片に持っていると、世界はなんと色豊かなことだろう。思いもしないところで、気がつきもしないところで、日々ふれるさまざまな人と、赤や黄や緑の色をサッと分けては捌けて受け入れてをくりかえしている。わたしは何を狂おしく思っているだろう。手元をみるとさつま芋。そういや、近頃さつま芋ばかり食べている。さしずめ芋ぐるいといったところか。ふふっと笑ってしまう。わたしは大きく深呼吸して、おじいさんにさよならと言った。今日は良い日になりそうだ。


 

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木村桃子(きむら・ももこ)

ある時は着付けの先生、ある時は書店員、ある時は川原でぼおっとしているひとりの主婦。

KYOTO的で、多くの女性から支持された「読む女」。ひきつづき本誌で連載。

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