読む女

第12回 涼しい人

2010.06.25更新

しょうがと茗荷、にんにくと紫蘇と葱、梅干し、らっきょう、胡瓜のたたき。
暑い日に食を助けてくれる薬味や漬物を冷蔵庫から例年に増して頻繁に出し入れしている。

家の冷房器具と扇風機いっさいがっさい一度にこわれて、ちかごろの夫はたいへん不機嫌である。
休みの日に二人で電気屋へ行き、新しい冷房器具を買ったが、取り付けまでに一週間以上かかるとのこと。
扇風機は気にいった形がなく断念して帰宅した。
夜、夫が「暑いよぅ」とあんまり情けなくいうので、うちわで扇ぐ。
むかし母がおんなじようにしてくれたなぁと思う。

便利に慣れすぎた体は、だるさをうまく外に放出できなくなっているような気がする。
ちょっとした変化なのに、てきぱきと動く思考をさえぎるくらい体が重い。
鈍る、というのはこういうことかと思う。

暑さもあってテレビに飽きてきて、夕飯後の時間はもっぱら読書に費やされるようになった。
そんなある日、夫がガラスのチェスを買ってくれてから、夕食後の時間に少しの変化が見られた。

夫はルールを知っていると思っていたが、知らないのだという。
それでは、と開いた説明書はスペイン語で読めない。
途方にくれていると、はらりと薄い一枚の日本語の説明書が出てきた。
といっても、駒の名と、チェス盤での動きの説明が書いてあるだけである。
まあ、とにかくと、それを開きながら、チェスを始めてみた。

「ルーク・・・これ横いけるんだっけ?」
「そのナイトの動き一こま違うんじゃないの?」
「おいおい、いくつ進むつもりなんだ」

何度も何度もやめそうになりながらも、気がつけば夫は「チェックメイト」なんていう。
もうどこへも逃げられなくなっているのだと気がつく。
とても悔しい気持ちになる。

つぎの夜も、気がつくと「チェックメイト」といわれる。
昨日より意地の悪い作戦で攻めてきたので益々悔しい気持ちである。

むかしチェスは父に教わった気がしたので、実家に帰った折に聞いてみると、「ボビー・フィッシャーの良い教則本があるよ」といわれたのでそれを借りて帰る。

さいきん、夜はたいていチェスをするようになった。
将棋に似ていて、覚えていくとなかなか楽しい。
将棋同様、夫はとても強くて、なかなか勝てないのではあるが。

そして不思議なことに、これをしているときには暑さをわすれるのである。
遊びに夢中で暑さなど関係のなくなるところは、子供の頃の感覚に戻ったようだ。

別の日、うだるような暑さの中、お世話になっている呉服屋へ、妹の浴衣を選びに向かう。
予めいくつか反ものを祖母が選定しておいてくれ、用意いただいたのを一反ずつ顔にあわせてみる。
真っ白な麻に、露草色の亀甲柄が似合う気がしてすぐ決める。
帯は萌黄色のにする。

おかみさんは白い帯を結び、涼しげな着こなしで着物をピタリと身につけておられる。
真っ白の帯は憧れるけれど、いい加減なわたしでは傷みそうなのと、変色がこわいのだというと、おかみさんの帯は、今はすこし黄みがかっているが、以前は真っ白だったという。
「でも、こんなふうにやさしぃ色になってきますと、また良くなりますやろ」
たしかにそうである。
「着物や浴衣はご自身が涼しいのだけでなく、人様から見ていただいたときにも、その方が涼しぃならはるように、きれいに着られるようになるのが一番です」

 君江は手紙の日附を見て、初めて七月になったのに心づいたような気がした。それと共に、わずか十日とはたたぬ先夜の事がもう一月も二月も前のような気がして、それ以来長らく枕についていたような心持もした。とにかく一年あまり毎日通馴れたカッフェーへ行かない事だけでも、境遇が一変してしまったような心持がするのに、時節も丁度その日入梅があきえて、空はからりと晴れ昼の中は涼風が吹き通っていたが夕方からぱったりやみ、座っていても油汗が出るような蒸し暑い夜になった。小家の建込んだ路地裏は昨日までの梅雨中の静けさとは変わって、人の話声やら内職のミシンの響きなどが俄に騒々しく聞こえ始め、路地の外の裏通にもラジオを始め、何という事なくいろいろな物音がしている。君江はおばさんに呼ばれて下へ行き、夕飯をすますと、洗髪のまま薄化粧もそこそこに路地を出た。...俄かに真夏らしくなったあたりの様子に、唯何ともつかず散歩したくなったからである。

(永井荷風『つゆのあとさき』岩波文庫)

自分のことばかり考えてくらすと、夏の暑さのなにもかもが、ともすると煩わしくなるのだが、家電がこわれて不自由になったり、おかみさんの一言を聞いたりして夏のもつ喜びを思い出す。
朝のひそかな打ち水も、涼やかな食事も、うちわのやさしい風も、ガラスのチェスも。
特別なことは、誰かを喜ばせたくて、することばかり。
夏はきっとすぐに去って行くから、暑い暑いとばかり云わず、涼やかな人を装えるだけのふところを深くしたいものである。

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木村桃子(きむら・ももこ)

ある時は着付けの先生、ある時は書店員、ある時は川原でぼおっとしているひとりの主婦。

KYOTO的で、多くの女性から支持された「読む女」。ひきつづき本誌で連載。

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