遊牧夫婦こぼれ話。

第6回 いつかまたラマレラで

2014.11.07更新

 先日、必要があって長旅のときの写真を最初から通して見ていました。
 2003年のオーストラリアから順に、膨大な枚数を夢中になって見ていくと、当時自分が考えていたことや悩んでいたことがぼんやりと頭に浮かんだり、オーストラリアの強い日差しや、肌に張りつくような東南アジアの空気を思い出したりと、久々にあのころを追体験することができました。そうして、東ティモール、インドネシアへと進んでいったところ、一枚の写真に写っていた一人の男性の姿を見て、ふと手が止まりました。

 それはレンバタ島にあるラマレラという小さな村の宿の中の写真でした。
 男性は、ぼくたちが泊まっていた部屋の中で、よく日に焼けた黒い肌に白いTシャツを着て、歯を見せて楽しそうに笑っています。その姿に猛烈な懐かしさを覚えながらぼくは改めて思い返すことになりました。あれから随分時間がたってしまったんだ、と。

 バリから飛行機、乗り合いバス、船、乗り合いトラックを乗り継いで足掛け3日ほどかかる僻地のラマレラは、400年前からほとんど変わらない伝統捕鯨で知られています。拙著『遊牧夫婦』の最後の章に書いたイルカ漁の舞台で、ぼくにとって5年間の旅の中でも一番印象に残る場所の一つです。 


 当時、船でレンバタ島の港に着いてから島の反対側にあるラマレラまでは道もなく、トラックの荷台に乗って4時間ほど山道を行かなければ着けないような場所でした。
 電気も通ってなく、現代文明とはまるで無縁に見える村でしたが、クジラを捕まえる瞬間を見ようとやってくるぼくらのような外国人旅行者はポツポツとはいるようでした。旅行者が来たら泊めて収入の足しにしている民家が当時4軒ほどありました。

 ぼくらはそのうち、村を貫くメインストリート(といっても、むき出しの石の上を土などで固めただけの細い道なのですが)沿いにある一軒の家に泊めてもらうことにしました。
 白い塗り壁のその家は、入口のテラスに竹でできたベンチがあり、中には3、4つの部屋がありました。予想以上にこぎれいで心地よい場所でした。発電機があり、おそらく村では数少ないテレビもありました。夜になり村中が真っ暗になっても、近所でこの家だけは九時ごろまでは発電機を回して灯りをつけています。夜いつも、複数の村人が奥の部屋に集まってみんなでじっとテレビを見ているのが印象的でした。

 ぼくらがラマレラ滞在中、外国人はぼくたち以外には村に数人しかいないようでした。
 しかしたまたまその一人が日本人の男性で、しかもぼくたちと同じ家に泊まっていました。その人こそがぼくが写真を見ながら手を止めた人物なのです。郷司正巳(ごうじまさみ)さんという写真家の方でした。
 郷司さんはぼくたちがラマレラに来る少し前からすでにここに滞在していました。とても温厚で、優しい笑顔が印象的な方でした。当時ちょうど50歳だった郷司さんは、ラマレラで捕鯨のシーンを撮影するために日本からやってきていました。彼は、以前ベトナムでも海の民の写真を撮っていて、クジラを捕るラマレラの人々にもまた、長い間興味を惹かれつづけていたようでした。


 郷司さんは毎日、日本語堪能なインドネシア人ガイドのマデさんと一緒に出かけていきました。夕方に戻ってくると宿の入り口にあるテラスに腰掛けて、外を眺め、海風に吹かれながら、その日の出来事を丁寧にノートに綴ります。そして、「今日もクジラは出なかったね。明日は出るかなあ......」といって穏やかに笑っているような方でした。

 マデさんはまん丸な顔でいつもけらけらと笑っているちょっとおっちょこちょいな20代前半くらいの男性で、いつも郷司さんと一緒にいました。マデさんが郷司さんを助け、郷司さんがマデさんをからかいながら楽しそうにしている姿はまるで親子のようでもありました。

 ぼくもラマレラについてはあとで文章を書きたいと思っていたため、郷司さんの存在はとても心強いものでした。夕方、テラスに彼が座っているときは、ときどきぼくも隣に座らせてもらって、その日経験してきたことをお互いに共有し合ったりしました。ときに郷司さんの持っていた資料を見せてもらったり、写真の撮り方についても教えてもらったり。マデさんにはインドネシア語を教えてもらうこともあり、2人にはずっとお世話になっていました。
 一方、ぼくが自分たちのこれまでの旅や、今後の計画について話すと、郷司さんはいつも、「うん、そうかー。へえ、すごいなあ」と熱心にきいてくれたのでした。
 そして郷司さんとともにぼくも毎日、今日こそは、と思いながらクジラが出るのを待っていました。

 ラマレラについて思い出すとき、ぼくはいつも郷司さんのことを思い出します。だから、『遊牧夫婦』にラマレラについて書くときも郷司さんのことを是非書きたいと思っていました。そこでぼくは、2010年、『遊牧夫婦』の原稿を書いていたとき、久々に郷司さんに連絡を取ってみることにしたのでした。

 郷司さんとは、インドネシアで別れてから半年ほどはちょくちょくメールのやり取りをしていたものの、ぼくたちが中国に住みだした2005年ころには次第にその頻度も減っていきました。
 それでも、郷司さんはぼくにとってもモトコにとっても、5年間の旅で出会った最も素敵な人の一人であり、ぜひいつか再会したいなあと話していた人でした。しかし、そう思いながらも、気づくと最後に連絡を取ってから5年もの歳月が経ってしまっていたのです。

 メールを送る前にちょっとでも近況を知れたらと思い、ぼくは彼の名前をネットで検索してみました。あれからまたラマレラに戻ったのだろうか。もしかしたら写真集ができあがっているのではないか。いろいろな想像を膨らませながら検索しました。すると、しかし、ネット上に現れたのはまったく予想もしていなかった言葉でした。

 それは郷司さんの知人らしき人のブログに書かれていました。郷司さんはその前年、2009年11月に亡くなられたというのです。
 享年56歳。まだあまりに若く、ラマレラでお会いしたときもとても元気そうだったので全く信じられませんでした。
 しかしそこには、その数年前に郷司さんが大変な手術をされ、その後も闘病されていたことも書かれていました。そのブログの報を読み、掲載されていた郷司さんのさわやかで優しい笑顔を見ながら、ぼくはしばらく呆然とし、そしてラマレラで過ごした郷司さんとの日々を鮮明に思い出しました。

 自分たちのラマレラでの日々はまさに郷司さんとともにありました。
 彼はぼくたちよりもずっと年配なのに、とても真摯に話を聞いてくれる人でした。なかなかああはできないよな、とモトコと後からたびたび思い出して話しました。自分も50代になったときにこんなふうな人でありたい。そう思わせてくれる方でした。

 そんな人だったから、ぼくは、
「写真家として生活していくのは大変ではないんですか?」
 などと、不躾に聞いたりもしてしまいました。
 そういったことにも郷司さんは、「そうだね」と言いながらいつも丁寧に答えてくれました。家族のことなども話しながら、「楽じゃないけど、まあ、なんとかやってるよ」と、日焼けした黒い顔にしわをよせて苦笑いします。その表情を見ていると、たしかに楽ではないんだろうけれど、写真を撮ることが本当に好きなんだろうなということが感じられ、郷司さんの、写真と正面から向き合って生きている姿にぼくは強く惹かれていったのです。

 ぼくは、自分がそのとき旅をしながらライターとしてひとり立ちするために悪戦苦闘していることについても郷司さんにいろいろと話しました。細々と仕事はしているけれど、これで将来生計を立てられるイメージはまだまったく見えてこない。本当に食べていけるようになるんだろうか。でも、がんばりたいと思っている、と。

 そんな自分に郷司さんは「大丈夫だよ」などと言うことはありませんでした。ただ、優しく笑いながら、「2人の生き方は羨ましいよ」などと言ってくれたように記憶しています。 ぼくはそんな言葉に、がんばろうと励まされたり、また、ライターとしてどうなるかは別としても、郷司さんのように素敵に年をとっていきたいな、などと思ったりしていました。


 そうして夜ごとに、郷司さんにいろいろと教えてもらったり、話を聞いてもらうという幸運な日々を過ごさせてもらっていると、ある日、彼に非常に不運なことが起ってしまいました。
 その日は土曜日で、ラマレラでは「バーターマーケット」すなわち物々交換の市場が開かれる日でした。ここではクジラは単に村人の食料となるだけではなく、彼らはクジラ肉を貨幣として使っていました。すなわち、男たちが海へクジラを捕りに行くのに対し、女たちはクジラ肉を担いで山に行き、クジラ肉を、山の民が育てたトウモロコシなどの農作物と交換してくるのです。

 ぼくは風邪で具合が悪くて、残念ながらこの日の市場を見に行くことはできなかったのですが、その日の朝、郷司さんはマデさんとともに市場を見に行きました。
 そして昼ごろ宿に戻ってくると、「いやあ、やっちゃったよ......」という苦い顔をしてこう言ったのでした。

「カメラ、落としちゃったんだ、海に......。市場からの帰り、山道は大変そうだったから、船で回って戻ってきたんだけど、船から下りたときに足滑らせちゃってね。カメラごとドボンだよ......」

 ニコンのカメラが2台、そしてレンズもすべて水没してしまったというのです。
 山道を歩いて帰ってきたガイドのマデさんに預けようかと思ったものの、まあ大丈夫だろうと自分で持ってきてしまったのが間違いだった、と悔しがっていましたが、もちろんもう後の祭り。写真家にとってこれ以上ないやりきれない展開に、ぼくはかける言葉が見つかりませんでした。

 多大な時間と労力と費用をかけてラマレラまでやってきていた郷司さんは、その後もにこやかな様子は変わりませんでしたが、さすがにショックは隠しきれず、「いやあ、本当にバカなことをしてしまったよ」と何度も何度も繰り返し言っていました。そしてほどなくこう言ったのでした。
「これでクジラが出たら悔しくてやりきれないから、もうぼくは帰るよ」

 ある意味当然な決断かもしれないと思いつつも、彼がラマレラを去ってしまうことをぼくはとても寂しく思いました。
 別れるとき郷司さんは、笑顔でぼくたちに言いました。
「来年、きっとまたラマレラに戻ってくるよ!」
 郷司さんとマデさんがラマレラを出発した日、ぼくは早朝から船に乗り、漁に同行しました。クジラに出合うことはなかったものの、イルカの大群に遭遇し、まるで哺乳類同士の闘いといえる瞬間を経験することになりました。その圧倒的な興奮がさめやらないその翌日、ぼくらもラマレラを去りました。

 帰り際にモトコは、郷司さんが来年戻ってきたときのためにと、宿のゲストブックにメッセージを書きました。
「郷司さん、今度こそはいいクジラの写真が撮れますように!」
 小さなスペースに、短くそんなような言葉を書きつけました。
 しかし、その後郷司さんがラマレラに戻ってきたかどうかを聞くことはできないまま、彼はこの世を去ってしまったのです。

 郷司さんのことは、『遊牧夫婦』のウェブ連載では書いたものの、結局本の中に収めることができず、ずっと心残りがありました。だから今回、久々に彼の写真を見てふと思い立ち、前書いた原稿をベースに再び思い出しながらこの原稿を書くことにしました。

 郷司さんの闘病期には、友人たちによって「郷司正巳さんを支援する会」が立ち上がり、彼を支えていたようでした。郷司さんの人柄を思い出すたびに、そういった仲間を持ちうる人であっただろうことがすんなりと理解できました。そしておそらく、郷司さん自身もまた多くの人の支えになってきたのだろうと想像しました。ぼく自身、郷司さんと出会ったことで、いろんな優しさを得ることができたからです。

 旅の一番の醍醐味は人との出会いだとぼくは思います。互いにまったく異なる人生を歩んできたもの同士が、未知の土地で偶然に人生のある瞬間を交錯させる。そしてその短いひと時が何らかの形で互いの人生に影響を残していく。郷司さんのことを思い出すたびに、そういった旅の出会いがいまの自分の大きな部分を作り上げていることを実感します。

 郷司さんのウィキペディアページができていることは、今回初めて知りました。それによれば、亡くなられたのは2009年11月5日とのことでした。
 つまり、この原稿が掲載される2日前、亡くなってからちょうど5年を迎えたことになるのです。


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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

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