遊牧夫婦こぼれ話。

第8回 新年は巡る

2015.01.03更新

 新しい1年が始まりました。

 日本に戻ってきてから今年でもう7回目のお正月です。元日は京都の妻の実家で過ごすのが定番になり、年明けは毎年ほとんど同じように過ぎていきます。おせちをいただき、駅伝を少し見て、寒い寒いと言いながら北野天満宮にお参りに行って、気づいたら三が日が終わり、ああ、今年もまた始まるのだなあと気だるさを感じていると、すぐに2月、そして3月。春になり、スコールの梅雨が過ぎたと思ったら酷暑の夏、そのあと束の間の休息のような短い秋を経て、気がつくとまた年賀状の季節に。

 あれは、2013年だったっけ、いや、2012年かな......などと思うことも増え、そのたびにあまりにも毎年が似たように過ぎていくことに愕然とするときがあります。
 もちろん、子どもが生まれたり、仕事で大きな変化があったり、大切な出会いがあったり、家を引っ越したりと、毎年、忘れ得ぬ出来事はあります。また何も大きな変化はなくとも、じっくりと一日一日を積み重ねるからこそ感じられる味わいや感激がたくさんあります。
 ただ、そうした日々の中、ふと旅の頃を振り返ると、あの当時、いかに一年一年がまったく違っていたかを改めて実感させられるのです。

 旅中は、正月も毎年違う場所で迎えていました。
 2004年はオーストラリア西部のバンバリーで真夏の年越しをして、2005年はちょうど東南アジア縦断を終えて一時帰国していた日本で迎えました。2006年は中国雲南省の大理という町で、遊びに来ていた従弟や昆明の友だちらとバーで年明けを祝い、2007年は上海で妻と二人、自宅での年越しとなりました。そして2008年はウズベキスタンのタシュケントの安宿で。
 一年一年、どこで誰と何をして過ごしていたかが、はっきりと、ほとんど考えることなく蘇ります。

 なかでもよく覚えているのは、2008年の年越しです。ユーラシア大陸横断中の、極寒のウズベキスタン。カザフスタンから国境を越えて二日目の夜が、2007年12月31日でした。
 首都タシュケントの大晦日は、予想以上にひっそりとしていました。見る限り、通りに人の姿はほとんどありません。

2007年12月31日、タシュケント

「どこかですごくたくさんの人が集まって盛り上がってるんじゃないかな?」
 そうも思ったものの、どこに行ったらいいかもわからず、零下10度にはなっているだろう猛烈な寒さの中、ただぼくらは歩いていました。そして、少しだけ奮発して韓国料理を食べたあと、泊まっていた宿へと1時間近く歩いて帰っていきました。
 その道中、まれにすれ違う人がいると
「ス・ノビーム・ゴダム!」
 と互いにロシア語で新年の挨拶を交わします。そのときだけ、ああ、本当に大晦日なんだなとわずかに感じることができるのでした。

 宿はタシュケント駅のすぐ隣にある、電車を待つ人が一晩だけ身体を休めるためのとても簡易なものでした。男女混合の5人部屋は運よくぼくらだけでしたが、いつ新たに他の人が入ってくるかもわかりません。
 しかも、寒さのせいでお湯が出ずにシャワーが使えないといいます。仕方なく、部屋の外の共同トイレの洗面台で頭と足だけを洗ったのですが、なぜか洗面台には大便がこびりついているのです......。なぜそんなところに、と考えるもその理由はわかりません。ただ、2007年の最後の一コマとしていまも鮮烈に記憶に焼きつく光景となりました。
 いずれにしても、そうして洗面台で最低限身体を洗い、ぼくもモトコもそれぞれベッドに横になって年が明けるのを待ちました。そしてときどき目をつぶってウトウトしながら時計を見つつ、針が12時を指すのを見守りました。
「あ、年が明けたね」
 2008年の始まりでした。それがこの長い旅の最後の正月となりました。

 ベッドから身を起こして窓の外を見ると、遠くで申し訳程度に花火が上がっている。それを見て初めて、本当に年が明けたことを実感できた。まばらな花火以外、窓の外には、漆黒の闇とわずかなオレンジ色の街灯の光のみが見えていた。
 旅に出てから新年を迎えるのは5度目のこと。04年は真夏のバンバリー、05年は一時帰国していた日本。06年は昆明のそばの大理、07年は上海だった。そして08年――。今年がもっとも静かな年明けだった。
 部屋の外の花火を見ながらぼくはモトコにつぶやいた。
「来年はどこで新年をむかえているんだろうなあ」
 そう言ってぼくはひとり、いくつかの場所を思い浮かべていた。
 旅を始めてからずっと、半年先にどこにいるのかが見えない状態が理想だったし、そうあり続けたいと思ってきた。しかしこのころ、すでに一年先について想像し、そのイメージに縛られそうになっている自分を感じていた。一年後を想像することで、急に未来がこぢんまりしてくるような気がした。
 ふとそんなことをモトコに話すと、彼女はこう言った。
「どこやろうなあ。でも、まだそんなこと考えるの早いって」
 そうだよな。新たな一年が、いま始まったばかりなのだ。

  (『終わりなき旅の終わり』 <ウズベキスタンでの年明け> p162-163)


 ユーラシア大陸横断を終えたら、きっとぼくらは日本に帰国することになるだろう。そう考え、そのことに少なからぬ不安を抱いていました。
 こんなに長い間気ままな生活を続けてしまった自分たちは果たして日本社会でやっていけるのだろうか。
 日本で文筆業で生活するなんてことができるのだろうか。ストレスフルな生活に戻ったら、せっかく克服しかけている吃音がまた元に戻ってしまうのではないか......。
 いくつもの不安があり、そのいずれもが考えても答えを知りようのないものでした。しかしいま思えば、あの先の見えない感じこそが、感覚を研ぎ澄まさせ、一日一日を際立たせていたようにも思うのです。

 タシュケントで新年を迎えた日からすでに7年のもの月日が流れました。当時の揺れ動く気持ちに懐かしさを感じながら、同時に、あのころのように、一年ごと、200×年と思い浮かべればそのときの気持ちやその町の空気感までが思い浮かべられる日々というのがいかに貴重なものだったかを思わずにいられません。
 いや、一年一年どころか、旅をしている間ぼくは、いま思うと信じられないような記憶を持っていました。旅を始めてから最初の2年間ぐらいについては、○年○月○日と言われたらほぼ確実に、一日ごと、どの町で何をしていたかをそらで言えたのです。
 ときどきモトコに日にちを言ってもらって、こんな会話をしていました。

「2003年4月○日は?」
「ああ、ダーウィンでバンを売ってたときだよね。たしか、○○が連絡くれて試乗してもらった日だよね」
「2004年8月△日は?」
「その日は、ボルネオ島のジャングルの2日目だよね」
「2005年10月×日は?」
「○○が遊びに来て、一緒に雲南省のバーメイ村に行った日だったよね」

 記憶力云々ということではなく、それだけ一日一日が違っていて、毎日が異なる風景、匂い、色、空気とともに記憶に刻まれていたということだと思います。そのように一日一日の詳細な記憶を積み重ねて、いつしかそれが熟成し自分の中で新たな何かとなっていく。そのような時間の流れの中で歳を重ねていけることの幸せを、いま改めて感じます。
 もちろんそれは必ずしも旅に出ないと得られないことではないと思いますし、旅に出たから必ずそういう感覚が得られるというわけでもないのかもしれません。
 ただ、そうした日々を自分が再び渇望するようになっていることをいま、ひしひしと感じています。

 今年はどんな一年になるのでしょうか――。
 そう考えた心の動きも記憶できるような一年にしたい。そう思います。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2008年1月1日、タシュケント


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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

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