遊牧夫婦こぼれ話。

第11回 もしもの人生

2015.04.04更新

 もし、○○をして生きていたら、どんな人生になっていただろうか――。
 そんなことを思ってしまうことが近頃よくあります。そして、あまりいいことではないなと感じつつも、他の人の生き方を見て、ああ、自分はああいうことがしたかったのかもしれない、と思うことも少なからずあります。40歳が近づいてきていよいよ後戻りできないような気持ちになってしまっているせいなのか、または、いろんなことに若干の行き詰まりを感じているせいなのか。

 そんなことを思いながら、最近、ある方の生き方にとても強く刺激を受けました。
 栗山さやかさんです。アフリカ南東部のモザンビークで、貧しい女性や子どもたちに寄り添って暮らしている35歳の日本人女性です。
 4年ほど前、彼女の本を出版するためにある編集者が奔走していたとき、自分もちょっとだけご縁をいただき、栗山さんの名前と活動を知ることになりました。そのとき、モザンビークで何年も暮らしているという彼女のブログを読んでその活動に心揺さぶられ、その後、出来上がった彼女の著書『なんにもないけどやってみた――プラ子のアフリカボランティア日記』(岩波ジュニア新書)を読んで、改めて彼女の生き方や思いに強い感銘を受けたのでした。

 栗山さんがバックパックを背負っての一人旅に出たのはいまから9年も前のこと。当時20代半ばだった彼女は、とくに明確な目的もなく日本を出たものの、アフリカ・エチオピアの医療施設でボランティアをしたことをきっかけに人生が大きく動くことになりました。
 日本ではおそらく想像もできなかったような厳しい現実の中で次々に起こる死の現場に身をおくことで、彼女は、自らの生きる意味を痛切に考えさせられ、そのままエチオピアで7カ月間働き続けました。その後、さらにアフリカを旅し、大陸南東部のモザンビークの過酷な現実を知った結果、その地で、貧しい女性や子どもたちに医療、教育などの支援をする「アシャンテママ(ありがとう、みんなの意)」という協会を一人で立ち上げ、以来モザンビークで地道な活動を続けながらずっと生活することになったのです。

 その栗山さんが、先の年末から2カ月ほどの間、帰国されていました。彼女を応援する多くの方たちが迎える中、自分もその報を聞き、この貴重な機会にぜひお会いしたいと思ったのですが、残念ながらどうしてもタイミングが合わず、叶わないまま、再び彼女がモザンビークへと戻る日となってしまいました。また今度、と思っても、いつその機会が訪れるかはわかりません。何しろ今回彼女が帰ってきたのは9年ぶりなのです。2006年にバックパックを背負って日本を出てから初めての帰国だったのです。

 栗山さんは、もともとはいわゆる「ガングロギャル」でした。20代前半までは、派手な格好で朝までクラブ、という日々を送っていて、海外やボランティアとは一切無縁だったようです。
 その彼女がなぜ旅に出て、アフリカでそうした活動を始めるに至ったのか。詳しくは、彼女の著書や記事(日経ビジネスオンラインのインタビューに詳しいです)を読んでいただきたく思いますが、旅立ちには一つの大きなきっかけがありました。その出来事に突き動かされるように彼女は日本を出て、おそらく彼女自身も予想していなかった方向にすべてが動いていったのです。

 そんな彼女の活動について、記事を読んだ親しい人がぼくに言いました。
「彼女の活動自体が本当にすごいけれど、それ以上に、何も決めずに日本を出て、現地での出合いによって心が動き、行動し、自然にいまの活動を始めていったところに私は強く惹かれました」
 それを聞いて、たしかにそうだなあと思いました。そして、自分の気持ちにしたがって行動し、人生を歩いていっている彼女自身の生き方が持つ強いメッセージをぼくは改めて感じたのです。

 旅というのはそもそもそういうものであるとぼくは考えています。つまり、旅のよさは、その「未知性」にあるということです。旅の日々自体が未知であるように、人が旅から受ける影響もまた未知です。だからこそ旅は心躍るのであり、無限の可能性を秘めているのだと思います。
 そういう意味でぼくは、いまの学生たちにときどき見うけられる「就活に有利になるための旅」「履歴書に書ける旅」といった考え方には非常に違和感を覚えます。旅した結果人生がどう転がるかわからないからこそ旅は面白いはずなのに、その旅の終着点を、最初から就活といったもともとのレール上のイベントに結び付けるのはとてももったいないように思うのです。
 自分にとって、人生に何か目指すことがあるとすれば、それは、ずっと先が未知である人生を生きていきたいということです。先に何があるかわからないという状態を積極的に選び取って生きていきたい。ぼくはそう思い続けています。

 しかしこのごろ、「もし、○○していたら」と考えたり、他人の進んでいる道を羨ましく思ったりしている自分に気づくとき、ふと、もしかすると自分は、いまなお未知の道があるということを信じることができなくなってきているのではないかなと感じるのです。年齢を重ねるにつれて、もはや自分はそういう未知な道を選ぶことができないと錯覚してしまっているのかもしれない、と。
もちろん年齢によって物理的に不可能になることは少なからずあります。でも、それは未知な道を選べないということとは違います。年齢とともに自由になることもあるわけで、人生には常に、無限の道筋が開かれているはずです。結局は、自分がどう考え、どう行動するかでしかありません。
 年を取るから未知な道を選び取れないのではない。選び取れないと自分自身を納得させてしまったとき人は年を取るのだろう。ぼくは漠然とそのように考えてきました。しかし、いま自分は、必ずしもそう思えていないのかもしれません。

 ぼくらの5年間の旅は、2008年にアフリカ南東部のマラウィで終わりを迎えることになりました。それは栗山さんがいるモザンビークの西に接する国です。
 マラウィとモザンビークの間には、マラウィ湖という南北に延びる湖があり、それが両国の国境線の一部となっています。ぼくたちはマラウィ北部のヴワザ湿地動物保護区で、長い旅に終止符を打つことを決めましたが、その後、南部にある首都リロンゲに戻る途中に、船に乗ってその湖にある島の一つに寄りました。船旅は夜をまたぎ、地元の人で溢れる中、ぼくらも甲板に寝転がって夜を過ごし、星空を見ながらさまざまな思いを巡らせていました。
 島で数日を過ごし、再び船に乗ってリロンゲに向かうと、その道中で船は一度、モザンビーク側の岸のすぐそばまで行ってしばらく止まりました。モザンビークへ行く乗客を降ろすためです。そして、乗客の一部が小さな船に乗り換えてモザンビークの地へと向かう姿を甲板の上から眺め、ああ、自分たちもいよいよ日本に帰るのだなあなどと考えながら、ぼくは、その小船と、その向こうに広がる大地にカメラを向けてシャッターを切ったのでした。その写真が、5年半の旅で撮った最後の一枚となりました。
 
 今回、栗山さんのことを考えつつこのときのことを思い出したのですが、そのときふと、あることに気がつきました。
 あのとき、あの国境の向こうに栗山さんがいたはずだということです。栗山さんが暮らすニアッサ州は大きいものの、地図を見るとマラウィと接しています。彼女が暮らす町も、湖からそう遠くなかったかもしれません。あのとき、あの黄土色の大地の向こうで彼女は懸命に、現地の人とともに自らの人生を歩き続けていたのです。そう気づくと一瞬、写真の中の人々がいまにも動き出さんばかりに生々しく迫ってくるような錯覚に陥りました。

 あれから6年半――。
 栗山さんがいまなおあの地に暮らしていることを思うと、なんとなく自分もあの旅の延長線上にいられるような気持ちになります。そしていま自分が求めているものが何なのか、少しずつ気づかされます。
 一週間後にどこで何をしているのかすら未知だったあの日々をまた取り戻したい、あの一枚の続きをまた撮りたい。
 さらに、こう思うのです。
 もし、と考えるのはもうやめよう。自分が動けばいいだけなのだ、と。


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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

遊牧夫婦

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終わりなき旅の終わり

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