遊牧夫婦こぼれ話。

第15回 いきたくないよう、いやだよう

2015.08.07更新

 先月、保育園の年長になった長女の「お泊り保育」がありました。年長の園児と先生たちとで自然公園的な場所に出かけて一泊するという行事です。親や家族と離れて泊まることはまだおそらく多くないだろう年齢なので、少なからぬ子にとって、なかなかチャレンジングであるはずです。小学校入学を来年に控えた年長組のもっとも大きなイベントだといえるかもしれません。

 娘にとって、妻も自分もいないところに泊まるという経験はそれまで一度だけしかありませんでした。その一回も、毎週のように行く妻の実家で祖父母と大好きな従姉と一緒に泊まるというだけだったので、身近な家族が誰もいないところで夜を越すのはまったくの初めてです。でもまあ、先生も友だちも一緒だし、きっと楽しんでくることだろう。漠然とそう思っていたのですが、じつは一筋縄ではいかなそうことがだんだんとわかってきました。

 お泊り保育の2カ月前ぐらいから、何かあると「ああ、おとまりほいく、いややなあ......」と言って、しょんぼりしてしくしく泣くようになったのです。妻がいないところに泊まるのが猛烈に怖くなってきたようでした。
 「行ったら絶対楽しいし、大丈夫やで」「ああ、行ってよかったって絶対思うよ」
 妻とぼくでそんなことを言ってみても、全然納得してくれません。近づくにつれて、ますますその嫌がり方は強くなり、毎晩のように泣き、時に号泣といえる泣き方にもなりました。そして心配だったのは、夜中に突然起きて、嘔吐するようにまでなったことです。
 本当に行きたくないようでした。

 その少し前に、娘に「『きんちょう(緊張)する』ってどういうことかわかる?」と聞くと、「わからへん」というので、簡単に説明すると「そんなきもちになったことない」といっていました。
 つまりまだ人生で一度も緊張したことがないという状況らしかったので、先のことについて気に病むなんて思いもしていませんでした。しかし、全身で拒否反応を起こして強烈に意思表示する様子を見ると、嫌だという気持ちが本当に強いことがわかってきました。これは彼女の気持ちを大切にしてあげなくていけないかもしれない。妻もぼくもそう思うようになりました。

 そして当日。前日もやはり「いやだいやだ」と言って泣いていたのですが、準備はさせて、保育園までは行かせることにしました。
 「とりあえず保育園まで行こう。みんなと会ってから、行きたいか行きたくないかを決めたらいいよ。それでもどうしても嫌だったら行かなくていいから」
 そういって、いつも通りぼくが自転車の後ろに乗せて、なんとか保育園までは連れて行ったのでした。
 きっと友だちに会えば、楽しくなって笑顔で行くのではないか。そう期待していました。ぼくも妻も、やはり行ってほしいという気持ちがあったし、行ったらきっと楽しくて、行ってよかった! ということになるはずだと思っていました。

 しかし保育園についても一向に顔は晴れません。友だちに会っても先生に会っても変わりません。それでもなんとか他の園児とともに、先生に連れられてしぶしぶ園舎の中に入っていきました。
 他のお母さんたちと一緒に10分ほど園庭で待っていると、娘たちは準備を整えて出てきました。苦笑いの顔ながらも友だちと一緒にじゃれているので、ああ、なんとか大丈夫かな......と思ったのですが、そう簡単ではありませんでした。いざぼくの姿を見ると、近づいてきてどんどん顔が悲しげになり、そのうちぼくにしがみついて、号泣し始めてしまったのです。
 「いきたくないよう、いきたくないよう、いやだよう......」
ぼく自身、恥ずかしいことながら、小学6年生のとき、塾に行くのが嫌でたまらず、行く前に庭で一人しくしく泣いていたら、見るに見かねた母親が一週間でやめさせてくれたという経験があるので、なんとなく気持ちはわかりました(しかも自分は小6!)

 その声はどんどん大きくなり、ぼくにしがみつく手の力も猛烈に強くなりました。これは無理かもしれないな。そう感じました。すると2,3人の先生が、「そよちゃん、行こう」と説得に来てくれます。
 「お父さん、大丈夫ですから、お任せください」
 そう言って、なんとか娘をぼくから引き離して一緒に行こうとしてくださる。ぼくも
 「行ったら絶対楽しいよ、夜、泊まるの嫌だったら、先生にいえばいいよ。そしたらすぐ迎えに行ってあげるから。とりあえず昼間はみんなと遊んできなよ」
 などと、いろいろなことをいいましたが、どんな言葉も耳に入る様子ではありません。娘はただただ、「いやあああ!」とさらに声を大きくして、全身に力を込めて抵抗し続けるのです。

 そうしたやりとりを5分ぐらいは続けたでしょうか。まったく変わらぬ娘の意思を感じ、ぼくはいよいよ決断しました。休ませよう、と。
 「本当に申し訳ないのですが、今回は休ませます」
 そう先生に告げました。先生方は、毎年、行く前に嫌と言っていた子もみな楽しかったって帰ってくるからと、なんとか連れて行ってくれようとするのですが、ぼくとしては、娘に、保育園まで行って嫌なら行かなくていいと約束し、これ以上は考えられないほどの嫌がり方をしているので、ここで無理やり行かせたら、「裏切られた」という気持ちを残すかもしれないと感じました。また、娘自身のこれだけ強い意思表示は尊重したいという気持ちもありました。
 先生方には、前夜にも夜中に起きて軽く吐いたりした状況を話し、連れて帰るという旨伝えました。そして、娘にはこういいました。
 「行かなくていいよ。おうち帰ろう。だから安心しな」
 それでも延々と泣き続ける娘を抱きしめながら園庭に座り込み、心配そうにまたは不思議そうにこちらを見ている30人近い園児たちと先生方が並んで園庭から門を出て出発するのを、二人で見送ったのでした。

 娘が泣きやんで落ち着いたあと、再び自転車の後ろに乗せて、二人で家に戻りました。娘はずっと鼻をすすりながら無言でただ乗っています。
 結局行かないで終わったか......。2カ月ぐらいずっとあれこれ気をもんでいたことだったので、やはり若干残念な気持ちがありました。その一方で、どちらにせよ、お泊り保育問題が一つの区切りを向かえて、ほっとする気持ちもありました。娘にも言いました。
 「もうこれで心配することないよな。よかったな」

 ただ、大きなイベントだっただけに、こういう形で参加しなかったことが何かその後に影響を及ぼすことがあるかもしれないとも思いました。これからますます、母親がいない場所に泊まることができなくなってしまうのではないか。友だちがお泊り保育の話をするときに一人だけ入れなくて保育園そのものがいやになったりしないだろうか。静かになった娘を後ろに乗せて自転車をこぎながら、そんなことが頭をよぎります。
 でも、考えても仕方ないと思い直しました。行くのと行かないののどちらがよかったかなど、けっしてわからないからです。
 そしてぼくはふと、7年以上前のイランでのある経験を思い出しました。

 北東部のネイシャブールという町で、理不尽な展開で警察に連行されそうになり、数時間にわたって大もめしたことがあったのですが、そのとき、警察側の人間として現れた英語堪能なおじさんがいました。彼が事態を収めてくれて無事解放されることになったのですが、その後、1, 2時間も経ったあと、町を歩いているとどこからともなくそのおじさんが現れたのです。そのときのこと――。

 しばらく歩いていると、またぼくらの近くに車が止まった。パトカーではなかったが、今度はなんだろうと少し警戒していると、なんと驚いたことに、現れたのは、先の英語堪能なおじさんだった。
 「さっきは大変だったね。よかったら今日、ぼくのうちに泊まりに来ないか」
 そう彼は言った。物腰が穏やかで感じのいい人だったが、登場のタイミングがあまりに不思議で、なんだか気味が悪かった。偶然なんだろうか? それともつけられてたのだろうか? そのうちに彼は、自分の素性を少し話した。彼は指が一本か二本なかったのだが、それがなぜなのかを説明し出した。
 「イラクとの戦争で、ぼくはこの指をなくしたんだ」
 本当かもしれなかったし、本当ではないかもしれない。しかしこのときは直感的に、ぼくもモトコも、なんとなく危険な空気を察知した。そして、こう言って断った。
 「ありがとう。うれしいけれど、今日テヘランに行くことになってるんだ」
 すると彼はすんなりとわかってくれた。「そうか、わかった。残念だけれど、元気で」。そう言って車に乗って去っていったのだ。
 彼が去っていくのを確認しながら、ぼくは考えていた。
 「彼についていったらどうなっただろう」
 あの車に乗りこんだら、思い出深い貴重な経験ができたかもしれない。あるいは本当に大変な展開になっていたかもしれない。ただ確実にいえるのは、選ばなかった道のことはいつまでもわからないということだけだった。

(『終わりなき旅の終わり』15 マリオ野郎 より)


 ぼくはこのときのことをなぜかよく思い出します。あの車に乗り込み、夕暮れの街のどこかに消えていく自分と妻の姿を思い浮かべるのです。乗っていたらどこに行くことになったのだろう。いったいどんな展開が待っていたのだろう。そう、当てもなく考えてしまいます。

 お泊り保育に行かなかったことは、あとから考えたらほとんど取るに足らないようなことなのかもしれません。一方で、何かを娘に残すかもしれません。いまでもよくイランでのことを思い出すように、今後、娘の成長を見ながら、お泊り保育の一件も時々思い出すことになるのかもしれません。
 ただ、いくら考えても、選ばなかった道の先に何があったかを知ることはできません。
 だからいいんだ、とぼくは思います。自分の選択があっていたか間違っていたかなど、判断することはけっしてできない。だからこそ、いま自分が進んでいる道を全力で生きていくしかないんだ、と。

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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

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