遊牧夫婦こぼれ話。

第21回 自分にとっての「切実なテーマ」

2016.02.12更新

 ライターとして生活を成り立たせるには、あらゆる依頼を引き受けて書いていかないといけない。自分の場合は、ということですが、日々仕事をしながら常にそう感じています。
 自分が不案内な分野の場合は、本を読んで勉強するところから始める必要があり、実際にいまもそういうケースが多く、ときどき受験時代を思い出すことがあります。高校・大学受験のときのようにそらで言えるようになったりする必要はないものの、すぐに実践して結果を出さないといけないという意味では、圧倒的に緊張感があります。
 最近は、並行して扱う複数の仕事の分野があまりにもかけ離れていて、頭も体も追い付かず辛いことが少なくないのですが、それも決して悪いことばかりではありません。未知な分野について一気に勉強して緊張感を持って仕事に臨むことは、自分の世界を広げ、新たな発見を与えてくれるし、書く力をつける上でとても大切なことだと感じています。ここ何年かは、そうした積み重ねが、自分の血となり肉となってきました。


 しかしその一方で、一つのテーマを長く追って深く掘り下げたノンフィクションを書きたいと思ってライターを始めた自分としては、やはりそういった書き物を仕事の中心にしたいという気持ちが強くあり、だんだんとその思いは強まってきています。
 ここ1、2年は、そのような自分のプロジェクト的仕事の割合をいかに増やしていけるかが自分自身にとっての最大の課題になっています。しかし実際には、そうした仕事は膨大な時間がかかると同時にすぐに収入に結びつかないため、日々の生活のためにはどうしても他の依頼された仕事をやる必要があり、結果として新たなプロジェクトがなかなか進まないまま、時間ばかりがたっていく......ということが続いてきました。

 ですが、そんなことを言っていてはいつまで経っても何もできないし、いずれそのまま人生は終わってしまいます。上のように考えるのは、結局は、やらないことの言い訳でしかありません。本当に書きたければなんとか時間は作れるものだし、もし作れないと思うのであれば、今後もきっとやらないのだから素直にあきらめたほうがよい、と自分自身思います。

 そう自分を鼓舞しながら、最近少しずつ、進むべき方向にシフトすることができているように感じていますが、この過程で何よりも大切なのは、心から書きたいと思えるテーマを見つけることだと痛感します。どうしても書かずにはいられないこと、何としてでも自分が書きたいと思える対象を探し出せるか。それは、一言で表せば、自分にとっての「切実なテーマ」ということになるのだろうと思います。

 自分にとって切実なテーマとはなんなのか。
 ぼくはこの頃、よくそのことを考えます。自分の内面から湧き出る抜き差しならない思いを原動力に書けるテーマ。自分自身が書くことに強い意味があると確信できるテーマ。それはなんなのか、と。

 すでに取材を始めてから3年近くなる「吃音」は、自分にとって確かにそのようなテーマだと感じています。自分自身当事者であり、自分の人生を大きく左右した問題であると同時に、同じ問題を抱えている人が多く、しかし書いている人は多くない。取材を始める前から、これは切実なテーマであるという確信がありました。
 そのようなテーマが他にないかをずっと考え続けてきたところ、いま、強く書きたいと思えるテーマが3、4つ具体的に浮かんでいます。そしてそれらについて調べ始め、いま少しずつ動き始めています。

 ただその一方、それらが本当に切実なものなのかどうかは、正直わからない気持ちもあります。吃音のように明らかに自分の人生を左右してきた問題ばかりではないからです。
 でも、深く興味があり、強く書きたいと思っている。そうしたテーマは、いまは切実だと思っていても、やってみるとそうではなかったと感じるかもしれません。または逆に、最初はそれほど切実ではないかもしれないと思っていても、書いていくうちに、その切実さがはっきりと見えてくるかもしれません。
 切実なテーマというのは明確ではなく、見つけるのは容易ではないと感じます。そして、一人の書き手にとってそういったテーマはそれほど多くはなく、もしかしたら生きている間に数えるほどしか出合えないのかもしれません。
 
 切実なものへ出合うことの貴重さは、文章を書くことに限らず、あらゆる仕事、そして生きることそのものについても同じように言えると思います。
 ぼくは、切実な何かをやっている人、あるいは、切実な何かを求めて生きている人にいつも強く惹かれますが、それはきっと、そうした対象に出合えていることに対する羨望の表れなのだろうと感じます。

 最近新しく取材を始めたテーマの一つは、日本の各地方に移住して新しいことを始めようとしている若い人たちの姿、その生き方や考え方を探る、というものです。その取材で先月、広島県の尾道に行き、まさに自分自身の切実な思いに従って生きている人たちに会いました。さらには、同じく先月、他の取材で訪れた伊豆半島の先端の南伊豆でも、そのような生き方をしている人たちとの出会いがあり、強く心を揺さぶられました。
 それぞれ、自分が生まれ育った都市を離れ、自ら住みたいと思った土地を見つけて移住して、巨大なシステムから離れて自身で何かを立ち上げた人たちです。今後どうなるかはわからないけれど、とにかく自分の実感を信じて、自らの意思で生きる道を模索している。
 自分の実感に従って生きれば、一つ一つの選択が切実なものとなっていきます。間違えれば大きなリスクを背負うこともあるだろうし、責任は自分で取るしかない。だからこそ、自身の感覚をできる限り研ぎ澄まさなければなりません。そのような選択を重ねている人たちに会っていくなかで、ぼくがこの連載で書きたいのは、そうした人たちの生きる姿なのだなと気づかされました。
 しかしもちろん、彼らに1日、2日会って話を聞いてみたところで、彼らが本当に何を切実なものと感じているかなどはわからないと自覚しています。それは、自分自身にとって何が切実かがわからないことを考えれば、明確です。

 自分にとって切実なテーマを書きたいし、切実な思いで生きている人に惹かれます。しかし突き詰めて考えていくと、そもそも切実なものとはいったい何なのか、ということに行きつきます。
 いまはこう思います。
 切実なものとは、将来それが自分にとってじつは切実なものではないことがわかるかもしれずとも、いま、時間やエネルギーを費やして動き出さずにはいらないものなのではないかと。そしてきっと、そうして動き出すことによって、さまざまなものが、いつしか本当に切実なものになっていくのかもしれない、と。

 まだ日本に帰ってきて間もなかった6、7年前、自分にとって書くことは、それほど重要かどうかわからないと考えていました。人にもよくそのように話していました。しかしいまは、書くことは自分にとってそのような気持ちでは決して語れないものになっています。時間をかけていく中で、確実に、切実なものとなったことを感じます。

 いま書き出しているテーマ、これから書こうとしているテーマも、そうあってほしいです。この先に思うような何かが見いだせるかどうかはわからなくとも、とにかくもがき、動き続ける。きっとそれ以上にいまできることはないのだから。

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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

遊牧夫婦

中国でお尻を手術。

終わりなき旅の終わり

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