遊牧夫婦こぼれ話。

第22回 「そして」と「それから」、「ぼく」と「私」

2016.03.04更新

 表現や文体について、このごろよく考えています。
 10代までの人生をほとんど本を読まずに過ごしてしまったことが大きいのだと思いますが、自分は読むことも書くことも本当に蓄積が少なく、大半の書き手の方が若いころにすでに考えただろうことを、30代が終わろうとしている今になってようやく気づき始めています。自分がこれまでいかに表現や文体に無自覚に文章を書いてきたか。最近、接続詞について考える中で、気づかされました。

 「接続詞は少ないほうがいい」ということは、一般論として子どものころから言われてきたし、頭ではそうなんだろうとは思っていました。ただ、それがなぜなのかはあまり納得できずにいました。むしろ、文章をスムーズにするためには接続詞がある方がいいと思うときが多いし、場面の展開をわかりやすくするためにも、とても効果的なものだと感じてきました。
 しかし最近、自分で書いた原稿をしばらくしてから読み直すとき、必要だと思って入れた接続詞の多くが不要であるように感じることが多くなりました。確かに流れはスムーズになっている。けれど、何かが違う。その「何か」の正体がこの頃だんだんとはっきりしてきました。つまり、「そして」や「それから」といった言葉を読むたびに、ふと意識が文章の内容から遠のくような気がするのです。

 せっかく内容に入り込んでいたのに、「そして」のような、それ自体に中身のない言葉が入ることで、一瞬、ほんの一瞬ですが、身が後ろに引ける。自分と文章との間に、わずかな隙間が生まれる。その隙間が必要なときもあるのですが、多くの場合、それは読み手を文章から遠ざける。その積み重ねで、いつしか読み手は文章から離れていってしまうことが感覚として感じられるようになりました。一方、接続詞をなくして熱のこもった言葉を連ね、文章のリズムも中身のある言葉で作るようにすると、読者は、一つひとつの言葉にこもった熱量を動力として先へ先へと進んでいけるのではないか、とも。
 もちろん、隙間が生まれることによって読者の気持ちがいい意味で次の文につながることもあるし、接続詞があった方がいいところは少なからずあります。けれどもよくよく推敲すると、必要なところは思っていた以上に少ないというのが、いまの自分の実感です。


 接続詞がどうしたなんていうのは青臭い話かと思います。それゆえいまさら書くのは気恥ずかしさもあるのですが、ここで言いたいのは、技術的なことではなく、そうした自分の肌感覚がいまとても大切に思えるようになってきているということです。
 前回書いたように「切実なテーマ」を書きたいと思うのと同様に、一つひとつの言葉も納得して書きたい。自分が世に出す言葉が、自分自身の言葉であるという実感を持って書いていきたい。なぜここは「だ」ではなく「である」なのか。なぜここは「思う」ではなく「感じる」なのか。なぜここには接続詞が必要なのか、なぜここに「、」を入れるのか。どんなに長い原稿であっても、その一つひとつすべてに対して、問われたらちゃんと答えられなければならない。そう思いながら、日々原稿を書いています。

 そうした中、もう一ついま自分の中の変化を感じるのが、文章の中で自分に対して使う一人称への思いです。
 一人称は、文章全体の性質を大きく左右するため、単に一般論としてこういう文章だから「私」の方がいい、いや「ぼく」の方がいい、というように決めるべきものではないと思います。書き手である自分の意識と合致するか、伝えたい内容に合うのか、読み手にすんなりと届くのか。さまざまな要素が関係してくるはずです。

 『遊牧夫婦』シリーズを始め、自分はこれまで、一人称を自ら選べる場合は「ぼく」を好んで使ってきました。なんとなく「私」では、気持ちがすんなりと伝えられない、「ぼく」であれば生身の自分に近い気がする。そんな気持ちがありました。それがこの頃だんだんと、「ぼく」は若干気恥ずかしく、「私」の方がしっくりくることが多くなってきました。
それはきっと、呼吸のリズムが変わってきたということなのではないかと考えています。
 「ぼく」という語にはなんとなく、少し地面から浮きあがっていろんなものを吸収していく躍動感を感じます。一方で「私」には、地面に足をつけてじっくりと物事を見つめるような雰囲気がある。呼吸に置き換えると、「ぼく」はいっぱい吸うのに対して、「私」は少し吸ってゆっくりと長く吐く。そんなイメージが、自分の中には浮かんできます。そしていまの自分は「私」に近くなっている、と。

 ただ、それは必ずしも年齢を重ねてきたから「ぼく」から「私」に、ということではありません。これからさらに年を取っていっても、いっぱい吸いたいと思うときがあるだろうし、かと思ったらまたゆっくりと吐き出したいときもあるはずです。また、年齢が若いからといって吸いたいばかりでもないでしょう。
 数多ある一人称から最終的にどれを選んで使うかは、内容やその他、複数の要素が絡み合って決まるものですが、ひとまず現在の自分の呼吸のリズムを知り、そこからスタートしないことには、どこか文章に無理が生じ、読み手に届くものにはなってくれない。それがいまの自分の一人称に対しての気持ちです。


 「切実なテーマ」が一人ひとり異なるように、文章そのものをどう書くのがよいのかも人によって異なります。大切なのは、その時々の自分自身のあり方にしっかりと向き合い、その感覚に沿って一つひとつの言葉を選んで書いていくこと。すなわち、自分の実感に従って書くことこそが文章の命なのであるということを、ようやく肌で納得できたように思っています。

 文章にはその人が表れる。
 まさにそのことを、身を持って感じています。だからこそ、一言一言に思いを込めて書きつづりたい。
 これまでそれほど真剣にこういうことを考えてこなかった自分がいまなぜこう思うのか。その気持ちが今後どう変わっていくのか。そんなこともまた、日々考えています。

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近藤雄生こんどう・ゆうき

東京大学工学部卒業、同大学院修了後、旅をしながら文章を書いていこうと決意 して、2003年、結婚直後に妻とともに日本をたつ。オーストラリアでのイルカボ ランティア(2003-04)に始まり、東南アジア縦断(2004)、中国雲南省で中国語の 勉強(2005)、上海で腰をすえたライター活動(2006-07)、その後、ユーラシアを 横断してヨーロッパ、アフリカへ(2007-08)。旅と定住を年単位で繰り返しなが ら、各国からルポルタージュ・写真を週刊誌・月刊誌に発表。2008年秋に帰国 し、現在は京都市に在住。著書に『遊牧夫婦』『中国でお尻を手術。』『終わり なき旅の終わり』(以上『遊牧夫婦』シリーズ、ミシマ社刊)、『旅に出よう』 (岩波ジュニア新書)。ノンフィクション、サイエンス、エッセイ、紀行文な ど、さまざまな分野の文章を執筆中。京都造形芸術大学・大谷大学 非常勤講師。

http://www.yukikondo.jp/

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